第14話 青葉さんはおうちで眼鏡
さて、ここからが問題である。青葉さんのマンションへと共に向かいながら、俺は徐々に緊張していた。緊張の理由は、駅からの距離だけで生活格差を感じるからではない。到着した部屋の間取りが2LDK(以上)だったからでもない。むしろ間取りには安心した。通されるのはリビングであって、寝室ではないし、寝室と一体にもなっていない。リビングだとプライベートな空間の感が減退するので、まだ心が穏やかでいられる。
しかも、さすが弟と二人暮らしをしていたお陰か、二人掛けのダイニングテーブルもある。リビングだってユニセックスというか、女性らしさは全くなく、茶色のサイドテーブルに白色のソファが置いてあって、あとは雑多な漫画が詰め込まれた本棚があるだけ――どっちかいうとちょっとちゃんとした男子大学生の部屋に近かった。
だから問題は――青葉さんがいま、何よりも先に風呂のスイッチを入れたことである。
「汗かいたからさっさと入れよっと」
「……そのことですが、青葉さん。僕は先に入るべきか、後に入るべきか、どちらなんですか?」
大問題だ。先でも後でも問題しかない。しいていうなら先に入ったほうが青葉さんは気持ち悪くないだろう、と言いたいところだが俺が入った湯に入れと言うわけにもいかない。にっちもさっちもいかんぞ、と俺は困り果てていた。
「先に入って」
しかし青葉さんは欠片も迷いなく即答した。
「私、髪が長いからある程度、そして必然タイルとか浴槽が汚れちゃうかもしれないから。そこを気遣うのがイヤです」
「……青葉さんがそれでいいならいいんですけれども」
会社の同僚が先に入った風呂ってどうなんだよ、と言いたいところだが、そこも含めて青葉さんは最初の結論に至っているらしい。しっかと頷く。
「白沢くん、ちゃんと毎日シャワー浴びてる人でしょ。大丈夫」
そういう問題かなあ――。俺は天井を見上げて唸りたくなった。青葉さんはおおざっぱだ。
しかし青葉さんがそうと言うのなら食い下がるわけにもいかない。俺が「さっさと入れば?」と脱衣所に追い立てられるまで、そう時間もかからなかった。
無になれ。脱衣所で一人、立ち尽くしながらまずそう言い聞かせた。無になるのだ、俺。それによく見ろ、洗面所には青葉さんの弟が使ってたらしい髭剃りが残っている。この部屋は青葉さん一人の部屋ではない。たとえ数多の化粧水が並んでいていかにも女性の洗面台だとしても、ここは青葉さん一人のものではない。そう、きっと弟くんが「姉貴、忘れ物取りに来た」なんて言って今すぐにでも帰ってくるに違いない。下手なことはできないんだぞ。冷静になれ。
そう言い聞かせて浴室に入った。そこでホッと安堵したのは、並んでいたシャンプーやリンスのケースが、“お値段以上”のプラスチックケースだったからだ。ここでうっかり知らない女性向けブランドなんて見てしまったら緊張も頂点に達するが、中身が見えないなら同じこと。ちなみに俺はトラベルセットを持ってきた。
……俺は浴槽に入らなければ解決するのではないだろうか? 髪を洗った後にふと気が付いた。そうだ、何も湯舟に入らなければならないわけではない。俺が入った後に青葉さんが入ってもいいのか、という倫理的(?)問題に対する解決方法は意外と簡単なところに眠っていた。
暦の季節は秋とはいえ、気温はまだまだ夏。自分一人ではシャワーで済ませるものの、言われてみれば湯舟に浸かってきれいさっぱり汚れを落としリラックスしたい気持ちはある。つまり満タンの湯舟はそこそこの誘惑である……が、仕方がない。気持ちよりも大事なことが社会人にはある。そう言い聞かせ、シャワーだけ浴びて出た。
スエット姿になって出てきた俺に対し、青葉さんは目を丸くした。
「はっや」
「男なんてこんなもんでしょう」
「いやあ、うちの弟はしばらくのんびり入ってたよ」
そう言って青葉さんはバスタオルを手に立ち上がった。大きめなので、多分着替えが挟んであるのだと思う。
「私は結構長風呂だから、気長に待ってて」
「どうぞ、お気になさらず」
そのための同居同盟だし、とは付け加えなかったが、青葉さんは俺の意を汲み取ったように頷いてリビングを出て行った。
ちなみに、ダイニングテーブルには、おそらくさっきまで見ていたのだろう青葉さんのスマホが置かれている。画面が表に向いていて、見られたって構いませんと言わんばかりだ。俺はヤバい男なんじゃないかとか、もっと疑ってほしい。もちろん見ないけど。
俺のスマホにはといえば、森川からのLINEがあった。
『ユリさんとデートすることになった』
『誰だっけ、ユリさん』
『この間の婚活で会った人。美人で、和歌山出身でたまに出る関西弁が可愛い』
『ああ、はいはい。おめでとう』
営業の取材でやむを得ず、というくだりはなんだったのか。しかし友達に彼女ができるというのはめでたい話だ。ちなみに、森川が例の婚活パーティで射程に入れている女性はもう一人いるらしい。確か『ミハルさん』と呼んでたな、と思い出していると『でもミハルさんのほうが安心感がある』と続きが来た。合ってた。
『ミハルさんのほうが話してて楽というか、落ち着くというか』
『話が合うのは大事だな』
『でもなんかユリさんのほうがいいかなあって』
『じゃあユリさんにアプローチを続けたら』
『ただ、そういう感情ってトロフィーワイフ欲しさなんじゃないかと思うんだよな』
いわゆる一般的な男の性だ。簡単に手に入らないものは手に入れたくなる。原初からある狩猟本能のせいだとかなんとか。
『婚活パーティのときもびっくりしたんだけど、ユリさんみたいな人が本当に婚活しなきゃいけないほど彼氏見つからないのかって』
他の参加者に、青葉さんもそう思われていたに違いない。こんな美人で彼氏がいないなんて、むしろ何か問題があるのではないかと。まったくもってその勘は正しい、青葉さんは会社の同僚に同居同盟を提案するとんでもない人だ。
『めちゃくちゃ好みだって話だな。話は合うの?』
『そう盛り上がるわけではないけど、まだ会って2回だからなあ』
二人で会って2回目で《《こう》》なっている俺と青葉さんは何なのか。不意に疑問を抱かされるコメントである。
『そういえばこの間飲んだ相手がな』
『なんでちょっとぼかすんだよ』
『いや先輩を飲みに誘ったら、先輩が別の先輩と飲んでるっていうから合流して、そこで会った人なんだけど、その先輩の先輩は俺にとっては他人だから』
『本当にただの他人だな』
『どんな相手でも付き合ってるうちにマンネリするって。美人は3日で飽きるっていうけど、誰相手でも3ヶ月経てば同じことなんだと』
『含蓄のあるお言葉を戴いたわけだな』
『その意味では、会話が盛り上がるとか盛り上がらないとか、顔が好みだとか、そういうことよりもなんとなくの居心地の良さとかのほうが大事なのかなとも思う』
奇しくも遊園地理論がまた登場した。日常を盤石にしておくことで、非日常を楽しむことができると。“彼女”に求めるのはどちらだろう。日常か、非日常か。
『それに、結局付き合うと一緒にいる時間が長いわけだし。美人で居心地もいいなんて、そんな都合のいい相手を想像するのはちょっと都合が良すぎるかもしれないなって自分に言い聞かせてる』
『非常に仰る通りってか正論だから反論はしにくいけどな』
そうして森川の徒然なるLINEに返事をしていたとき、青葉さんが戻ってくる。
「お待たせー」
長い髪を濡らし、肩にバスタオルをかけ、薄手のよく分からん水色のパジャマを着て、化粧を落として。
青葉さんは真っ先に俺の前に置かれたスマホを手に取った。不意に濡れた髪が一房零れていい匂いがした。青葉さんのシャンプーはこういう香りらしい。
「お水とか飲んだ? 適当にしてくれてていいよ」
「あ、はい……どうも……」
青葉さんの指は素早く動き、そして再びスマホを置く。青葉さんは「結局お水飲んだの?」と畳みかけてくるので「いやまだ」と返事をすると、俺のぶんのグラスも置いてくれた。
「眼鏡取ってくる」
そして寝室のほうへ向かう。俺の前だというのに、まるで躊躇なく扉を開けて中をさらけ出し、そのまま部屋の中へ入る。「うえー、暑い」なんて呟きながら。暗いその部屋の中には、整えた様子のない、寝て起きたばかりと言えそうな乱れた布団が見えた。
視界の隅でまたスマホが光る。今度は俺のスマホだ。また森川から、徒然なるLINEがきていた。
「……さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで……だったか」
そりゃあの青葉さんを見ていたら恋に溺れそうにもなるだろう、と思う。溺れないけど。




