第13話 青葉さんは方向音痴
店を出た後、青葉さんは「飲み直しましょう!」と元気よく言いながら明後日の方向を指さした。その横顔は夜の街灯に煌々と照らされ、表情も相俟って輝いている。クラーク博士の像のようなポーズだが、見た目はどちらかとも言わずとも女神である。似たような像がギリシャ神話資料集とかにありそうだ。
「いいですけど、二軒目って話ですか?」
「まさか、せっかくうちが使えるのになんで外でお高く飲まないといけないんですか」
それはおっしゃるとおりですね。デートでもなんでもないですものね。というか、本当にマジで同居同盟をやるんですね。
「いえ、指さすのでどこか行き先があるのかと思って」
「これは家の方向です」
「そっちは千葉ですよ。青葉さんの家はあっちです」
「なぜ私の家をご存知なんですか」
「青葉さんがさっき話してたんですよ!」
「冗談です。東京の東西南北がまだよく分からないんですよね。通勤によって東と西どっちへ向かっているのかすら理解してません」
青葉さんは方向音痴。俺の中でまた一つ、青葉さんの謎情報が増えた。
電車に乗りながらもその調子で喋っていると、青葉さんは唐突に何かを思いついた顔になった。
「そういえば白沢さん、私はずっと考えていたことがあるんです」
「なんですか?」
「敬語をやめませんか?」
「……なぜですか?」
正直、敬語でいたかった。だって敬語は相手との間に壁を作ることができるから。どんなに砕けたって敬語は敬語、俺と青葉さんは同僚であるというその一線を明確に引くことができるから。
「距離を感じるからです」
でも青葉さんは真逆のことを言ってのけた。ニッと自信たっぷりに笑ってこちらを見上げてくる仕草は、自分の顔面偏差値が明らかに優れているほうだと自覚がなければできないものだ。
「同居っていっても、隔週の金曜日の夜だけじゃないですか。そんなに気になりますか?」
「いきなり恋人になったわけでもないし、ってことですよね。気になりますよ、まさしく距離が縮まらないことこそこの同盟の本旨に反するので」
……青葉さんはもっと自分の顔がいいことを、そして顔がいいことが男にどんな影響を与えるのか自覚したほうがいい。全くその気がないこっちだって、まるで「距離を縮めたい」ようなことを言われると悪い気がしないし、調子にも乗る。
「……でもこの同盟って、どちらか一方でも好きにならなきゃ終わりじゃなかったですっけ」
「そうですよ。距離を縮めることイコール好きになることではありません。大丈夫ですよ、白沢さん。“距離が縮まった結果、『コイツ、ナシだな』ってなるのも『アリ』である”、それこそがこの同盟の本旨なんですから」
まるで女神のような顔で、地に足の着いたことをいう。ああでも、ギリシャ神話に出てくる神はどいつもこいつも人間らしいんだっけ。
「……存外、青葉さんって青バラとかじゃなくてペルセポネとかかもしれませんね」
「誰が冥界の女ですか。引きずりおろしてケルベロスに食べさせますよ。がぶっ」
青葉さんの手がキツネの形を作り、指先が俺の鼻先を掠める。体に焼け付くような疼きが走ったのは生理現象だ。
「その発言こそがまさしくペルセポネです」
「というかペルセポネは既婚者じゃないですか。私は未婚だから同居同盟を結んでるわけですよ、心外です!」
「そんなこと言ったら世で女神の比喩なんてほとんど使えないじゃないですか……」
「で、敬語はどうするんですか? あ、なんなら『直くん』とか呼んでおきます?」
……俺を『直くん』と呼んでいたのは、元カノだけである。謹んでお断りさせていただきたく、そしてゆえに、譲歩するしかなかった。
「敬語をやめましょう。呼び方は、白沢でも、白沢くんでも、なんでも大丈夫です」
「じゃあ直ちゃん、どうぞよろしく」
「提示された選択肢から選んでください! 酔ってるんですか!」
「冗談だって。で、白沢くんも敬語はやめてね」
けらけらと楽しそうに笑う青葉さんは、本当に全く酔っておらず、普通にただただ変な人なのだ、と知ったのは、それからしばらく同居を続けてからのことである。




