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6話 いい年して知らないの?

      1


「ねぇ先輩、“推し香水”ってあります?」

「……推し、香水?」

 真帆は手を止めた。ランチのサラダをつついていたフォークが、少し宙で止まる。

 向かいの席では、莉子がスマホを見せながら笑っている。

「この子の香水、めっちゃバズってて。つけてるだけで“垢抜け”るんですよ!」

「へぇ〜……」

 相槌の声が少し遅れたのを、真帆は自分でも感じた。


「え、先輩知らないんですか? いい年してSNSとか見ないんですか〜?」

「“いい年して”って言葉、便利だね」

 真帆が笑うと、莉子は一瞬びくっとした顔をした。

「え、ごめんなさい! 悪気なくて」

「わかってるよ。気にしてない」


 でも、ほんの少し胸の奥がチクッとした。

“知らない”って、そんなにマイナスなんだっけ。

 昔は知らないことを面白がる余裕があったはずなのに。


 午後、デスクに戻った真帆は、窓の外の雲を眺めていた。

 昼休みのざわめきが消えて、空調の音だけが静かに流れている。

 スマホを開いてみると、莉子が見せていた香水の広告が流れてきた。

 透明な瓶。ミントとホワイトティーの香り。

 画面越しなのに、すこし息が軽くなる。


──知らないって、少し自由かもしれない。


 帰り道、風に乗って誰かの香水がふわりと流れた。

 真帆は小さく笑ってつぶやいた。

「うん、知らないままで、いいかも」



      2


 夜のコンビニ。

 ガラス越しに、街の光がぼんやり滲んでいる。


「先輩、まだ信じてるんですか?」

 レジに並びながら、佐久間が笑った。

 彼の声は軽く、でもどこか本気の匂いがした。


「“ちゃんとやってれば報われる”とか、“人はわかり合える”とか」

「……まぁ、そういうの、信じてたほうが楽だからね」

 真帆はおにぎりをトレーに乗せながら言った。

「でも現実は違うじゃないですか」

「違うね」

「それでも、まだ?」


 レジ袋のカサッという音が、答えよりも早く響いた。


 外に出ると、夜風が頬に当たった。

 信じる、なんて言葉。

 使い古されたシャツみたいに、もうほとんど形を失っている。

 でも──。


 街角で、誰かが転びかけた。

 その瞬間、通りがかりの人が手を伸ばして支えた。

 ほんの一秒。

 それだけの光景が、真帆の胸に残った。


「まだ信じてるのかも」

「え?」

「“ちゃんとやってれば”とかじゃなくて、“誰かがそっと支える瞬間”の方」


 佐久間は、返事をしなかった。

 自動販売機の光が、二人の間を薄く照らしている。


「いい年して、まだ信じてるの?」

「うん。ほどほどにね」


 風が少し冷たくなって、空には小さな星が一つ、光っていた。

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