1話 いい年して泣くな
夜勤明けの空は、いつもどこか薄い。
夜と朝が決めきれずに揉み合っているようで、
そのあわいを歩くと、世界がまだこちらを見ていない気がする。
浩平は、コンビニの前で立ち止まった。
缶コーヒーの温もりが指に沁みる。
さっきまでいた老人ホームの廊下には、洗剤と汗の匂いがまだ残っていた。
——「あんたは優しいねえ」
夜中の巡回のとき、
認知症の入所者の一人、上村さんがそう言って、急に泣き出した。
小さな手が浩平の手を握って、離さなかった。
「息子がね、こんな手だったのよ」
その一言で、何かがほどけた。
別に、特別なことをしているわけじゃない。
でも、ああいう涙を見ると、
自分の中のどこかがずるずると溶けていく。
そして気づく。
自分が“まだ泣ける人間”であることに。
休憩室でそれを思い出し、少し泣いてしまった。
同僚が笑った。
「いい年して、泣くなよ」
笑いの中に悪意はなかった。
けれど、その言葉だけが心に残った。
いい年して、泣くな。
じゃあ、いつなら泣いていい?
子どものときだけ?
社会に馴染んでからは、
涙の出番は終わりなのか。
缶コーヒーを飲み干すと、
金属の味がした。
空を見上げると、
夜がやっと剥がれ落ちていくところだった。
街路樹の間からこぼれる朝の光が、
ほんの少しだけ目に沁みた。
その光のなかで、浩平はふと思った。
「いい年して、泣けるうちは、まだ人間でいられるのかもしれないな」
そして歩き出す。
手の中の空き缶が、小さく鳴った。




