第7話 黎明機構
夜明け前。
東都第三区の港倉庫街は、霧に沈んでいた。
街灯の光はぼやけ、舗道の輪郭さえ曖昧になる。
リョウは紙片に記された座標を頼りに、倉庫街の地下区画へと足を踏み入れた。
廃棄された物流倉庫の裏手。
錆びた非常階段を降りた先に、重厚な鉄扉が立ちはだかっていた。
扉には古びた端末が埋め込まれている。
画面には、無機質な文字が浮かんでいた。
《アクセス認証:管理者コードを入力してください》
リョウはポケットから紙片を取り出す。
地図の隅に、小さく記された“篠原孝司”という名前。
その下に、手書きのような数字列が並んでいた。
「……これか」
彼がコードを入力すると、扉は軋んだ音を立ててわずかに開いた。
冷却剤と静電気の匂いが立ち上る。
中は、かつて情報監視審査会の予備ノードが保管されていた区画だった。
ラックの奥に、ひとつだけ通電している端末がある。
リョウが近づくと、画面に文字が浮かび上がった。
《ADMIN NODE: SHINOHARA_KOJI
STATUS: DORMANT
LAST ACCESS: ※※ YEARS AGO》
「……このノード構造、旧型の管理システムか」
指先が端末に触れた瞬間、スピーカーから低いノイズが走る。
そして、音声が再生された。
「……この記録を見ているということは、
私の“沈黙”が破られたということだ」
それは、篠原孝司の“遺言”だった。
篠原の音声が途切れた瞬間、端末の画面が一瞬だけ暗転した。
ノイズが走り、別の声が割り込む。
「……来たか、リョウ」
滝沢の声だった。
リョウは驚かなかった。
この接触は、予測されていた。
だが、声の質には何かがあった。記録ではない。
端末に直接仕込まれた“個人トレース”――滝沢自身の意志が、ここに残っていた。
「君がこの記録に触れた瞬間、私はここに現れるよう設計していた。
これは“対話”ではない。“選択”だ」
画面に、二つの選択肢が浮かび上がる。
《記録を公開する(全記録解凍)》
《記録を封印する(プロジェクト制御)》
滝沢の声が続いた。
「このノードには、インサイダー事件の全記録が眠っている。
削除命令の履歴、補助金の不正配分、株式移動の裏付け――
すべて、記録されている。だが、それを世に出せば、
プロジェクトは崩壊する。秩序は失われる」
一瞬、映像が揺れた。
滝沢の左手が映る。薬指には、指輪の跡だけが残っていた。
「……俺も、かつては信じていた。
記録が真実を残すと。
だが、記録が人を殺すこともある。
真実は脆い。
扱うには、人間が未熟すぎる」
リョウは画面を見つめた。
その言葉は、滝沢の喪失と恐れ、そして諦めのすべてだった。
「君は、まだ選べる。
このまま表の世界に身を置けば、しばらくは生き延びられる。
だが、記録を出すなら――君は、記録者として“裏に立つ”ことになる」
画面の選択肢が、わずかに点滅する。
リョウは、画面を見つめたまま、動かなかった。
(公開か、封印か。それとも――)
そのとき、端末の下部に新たな表示が浮かび上がった。
《管理者プロトコル:未展開》
《展開には“記録者認証”が必要です》
リョウは、選択肢には触れず、記録者認証の欄に記者時代のIDコードを入力した。
《記録者認証:承認》
《管理者プロトコルを展開します》
滝沢の“最後の記録”が、静かに開かれた。
リョウは、誰のためでもなく、自分の意思で“記録”に触れた。
それが、沈黙を破る唯一の鍵だった。
管理者プロトコルの展開が完了した直後、端末の画面が静かに切り替わった。
そこに表示されたのは、沈黙プロジェクトの初期ノード――篠原孝司の管理者記録に接続された端末だった。
リョウは、操作履歴の一覧に目を走らせる。
その中に、ひときわ異質な記録があった。
《記録者ID:TAKIZAWA_MAKOTO》
《操作日時:04/26/2××5》
《対象:SHINOHARA_KOJI》
《内容:個人記録の統合・偽装処理》
リョウは息を呑んだ。
河川敷で発見された“滝沢誠”の遺体――それは、篠原孝司だった。
滝沢は、沈黙プロジェクトの管理権限を使い、自らの記録を篠原のものと入れ替えていた。
その目的はただひとつ。
死を偽装し、記録の外に身を置くこと。
画面の奥深くには、封印された記録群が眠っていた。
インサイダー取引の証拠。
政府内部の通信ログ。
大企業や団体からの裏献金の流れ。
数々の削除命令の履歴。
そして、記録の優先順位を操作する“管理者プロトコル”の断片。
リョウは、画面を見つめたまま動けなかった。
そこに記されていたのは、沈黙プロジェクトが生み出した“沈黙”そのものだった。
滝沢は、死を偽装することで、記録の外側から記録を暴く者になった。
そして今、その“最後の記録”は、リョウの手に委ねられている。
端末の画面にアクセスすると静かに切り替わった。
そこに現れたのは、沈黙プロジェクトの初期構造――記録の優先順位を定義する根幹コードだった。
リョウは、目を凝らしてその構造を読み解く。
記録は「政治的影響度」「経済的損失」「社会的混乱度」によって自動分類され、
一定の閾値を超えると“封印”または“削除”対象に振り分けられる。
つまり、真実の価値は“都合”によって上下するよう設計されていた。
滝沢が残した操作ログがあった。
《記録者操作:優先順位変更》
《対象:削除対象記録群》
《変更後:保存・非公開》
リョウは息を詰めた。
滝沢は、削除されるはずだった記録を、手動で“保存”に切り替えていた。
その記録こそ、彼が命を偽装してまで守った“最後の記録”だった。
端末が、静かに画面を表示する。
《記録者による優先順位再定義が可能です》
《再定義により、プロジェクト制御構造が変更されます》
リョウは、指先を画面に乗せた。
彼の中で、ひとつの問いが脈打っていた。
(記録は、誰のために残すのか。
誰が、それを選び、守るのか)
滝沢の声が、再生された。
「記録は、残すだけでは足りない。
それを“誰が、どう扱うか”が、すべてを決める」
リョウは、記録の優先順位を「影響度」ではなく「透明性」に基づいて再定義した。
その操作により、封印されていた記録群が“公開対象”に切り替わる。
画面が震え、警告が赤く点滅する。
《プロジェクト制御不能:記録の再定義が完了しました》
《沈黙プロジェクトは、記録者によって再起動されます》
リョウは、静かに画面を閉じた。
彼はもう、傍観者ではない。
沈黙を破る者として、記録の根に触れた者となった。
その瞬間、遠く離れた政府機関の監視ノードが異常を検知する。
“制御不能”のフラグが点灯し、代議士の端末に緊急通知が走る。




