第2話 真実の値段
コンドウから得た情報と、佐藤が非公式に提供した移動データを元に、リョウは南国へと飛んだ。ファントムが潜伏しているのは、金融規制が緩い、華美なカジノリゾート都市の一角だ。高層ビル群のガラスは眩しいほどに輝いているが、リョウの目には、その輝きが薄汚れた金の残滓に見えた。
リョウはホテルのチェックインカウンターで、自分の名を名乗った。彼は隠れるつもりはなかった。ファントムの手先に気づかれることなど織り込み済みだ。(奴は“追われていない”と思っている時こそ、最も油断する。)
リョウのターゲットは、元婚約者のマナミ。彼女は前田から与えられた巨額の資金で、昼間からプライベートビーチのデッキチェアに寝そべり、酒を飲んでいた。孤独と疲弊は、高価なサングラス越しにも見て取れた。
リョウは場違いな東洋人として、彼女の近くのバーカウンターに座り、冷えたジンを一気に飲み干す。
「システムの完璧さを語る男は、いつも女の感情を見誤る」
高級ブランド店の中で、リョウはマナミの隣に立った。
「その石の輝きは、長くは続かない。」声を潜めて言う。彼女が試着していた指輪に光る石は、被害者たちの涙の結晶のように見えた。
マナミは驚いて振り返る。リョウの目を見て、すぐに異質な存在だと察知した。
「誰? 警備を呼びますよ」
「呼んでもいい。だが、その前に聞け。あんたが着ているその服も、その宝石も――すべては、前田があんたをスケープゴートにするための対価だ」
リョウはコンドウから聞いた情報を基に、畳み掛けた。
「前田はあんたを愛してはいない。親しいカジノオーナーのツテを使うために、そばに置いているだけだ。資金洗浄が最終段階に入れば、罪の痕跡がすべて記された口座を、あんた名義で残すつもりだ。あんたが逮捕されれば、奴は完全に自由になる」
マナミの表情から血の気が引いていく。
「嘘よ……信じない」
「嘘かどうかは、これを確認すればいい」
リョウは懐からスマホを取り出し、画面を見せた。そこには、闇ブローカーのコンドウが持っていた、前田の自筆と判定できる送金指示書の写しが映っていた。最終受益者欄にはマナミの名が記され、資金洗浄の責任をすべて彼女に負わせる計画が明確に示されている。
「良心を疑う気はない。だが、あんたには生き残る権利がある。奴に復讐しろ。俺に真実を渡せば助かる。俺が書く記事は、逮捕より先に、奴の計画を世界中に晒す」
恐怖に駆られたマナミは、震える手で自分の小型タブレットを操作し、リョウに暗号化されたデータへのアクセスキーを渡した。それは前田が部下に送った、資金洗浄を指示する音声データだった。リョウは即座に自分の録音機にデータを転送する。
(スクープの決定打。これで、この命がけの出張費はペイできる。)
証拠を手に入れた直後、リョウの耳に警備員の無線が飛び込んできた。
「ターゲットを発見! すぐに確保しろ!」
リョウはマナミに一瞥もくれず、店の裏口へ駆け出した。スクープの証拠を手に入れた代償として、ファントムの追跡者に、自分の居場所を知られてしまったのだ。
裏口から飛び出すと、そこはリゾート地の雑然とした従業員通路につながっていた。リョウの後ろからは、ファントムの手先である屈強な男たちの足音が迫る。
追跡の末、リョウはなんとか廃墟となった倉庫に逃げ込み、息を潜めた。
その時、リョウのスマホが鳴った。非通知の番号。
喉の渇きを無視し、通話ボタンを押す。
「リョウさん、本当に粘り強い。しかし、あなたが手に持っているものは、すでに無価値です。マナミが裏切ったことはすぐにわかりました」
電話の向こうから聞こえてきたのは、宣伝動画と同じ、人を惹きつけるカリスマ性を持った声だった。しかし、今はその裏に、氷のような冷たさが張り付いている。
「無価値? あんたがマナミに罪を擦り付けようとした指示書の写しと、資金洗浄を指示する音声データ。これが無価値だと?」リョウは荒い息のまま言い返した。
「それは、私があなたを評価するためのテストだったんですよ。」前田は笑った。「あなたは常に金の匂いを追う。それは私も同じだ。あなたは真実を報道したいのではない。報道によって得られる金が欲しいだけだ。私はその金の価値を知っている」
声がさらに低くなる。
「口座のパスワードを教えましょう。記事を諦めれば、あなたは一生、この薄汚い倉庫で息を潜める必要もなくなる。何百億という規模ではないが、フリーの記者には十分すぎる額だ。どうです? 手を組みませんか」
リョウはしばらく沈黙した後、煙草を取り出し、震える手で火をつけた。煙を吐き出し、答える。
「口座のパスワードか。安いな。あんたが手に入れた何百億に比べれば、それはただの小銭だ」
「なぜだ? あなたは金のために動いているのだろう?」前田の声に、初めて苛立ちが混じった。
「ああ、金のためだ。だが、あんたが持ってる金そのものじゃねえ。俺が欲しいのは、あんたの失敗だ。俺がそれを証明する。記事はもう組んだ。あんたは、俺のスクープのために、この世界から消えるんだ」
リョウは電話を切った。
すぐに、音声データを佐藤に転送する準備を始める。同時に、命を狙う手先たちが、倉庫の入り口に近づいてくる気配があった。残されたのは、記事を出すか命を守るかを決める、ほんの一瞬だけ。
リョウはスマホの画面を凝視した。佐藤にデータを渡せば、奴らは逮捕に動く。だが、組織の論理だ。逮捕が成功しても、事件の全貌は裏に葬られるだろう。
外を囲む男たちの足音が、はっきりと聞こえてきた。もう時間がない。
リョウは深呼吸し、最も高値で記事を買い取る大手メディアに対し、音声データと偽の登記簿の写し、そしてマナミの証言をまとめた記事ファイルを添付し、即時配信を指示した。
その直後、倉庫のドアが蹴破られた。世界中に即時配信されたデジタルな混乱を唯一の突破口に、裏手の窓から飛び出した。
追跡者を撒き、港で手配していた小型ボートに飛び乗る。リゾート地のきらびやかなネオンが遠ざかる中、スマホに佐藤からメッセージが入った。
佐藤:「あなたは……本当に馬鹿だ。もし逮捕が失敗したら、あなたを刑事告発する」
記事は爆発的な影響力を持った。ファントムのカリスマ的なイメージは崩壊し、彼は世界中に晒された。
佐藤の所属するSESC(証券取引等監視委員会)は、国際的な監視機関と連携し、ファントムが資金を移そうとしていた取引所を一時的に凍結させることに成功した。数百億円の資産のほとんどは回収の目処が立った。
しかし、前田信二——通称ファントムは逮捕されなかった。
リョウの記事配信と資金凍結の混乱に乗じ、彼は少額の残りの資金を手に、更に匿名性の高いデジタルルートを使い、完全に逃亡した。
数ヶ月後。リョウはフリーランスとして得た巨額のスクープフィーで、未払いの請求書をすべて片付け、生活からくる切迫感は消えていた。
バーのカウンターに、一人の女性が座った。佐藤瞳だった。落ち着いたスーツ姿は以前のままだが、彼女は少し疲れているように見えた。
「相変わらずですね」佐藤は言った。
「そっちこそ。俺に会うなら、こういう場所に来るしかないだろう」リョウは笑った。
「あなたのおかげで、私たちの組織は史上最大の資金凍結に成功した。対価は、予定通り振り込まれてるわね」
「俺が記事を出すことを承知の上で、国際的な凍結の準備をしていたんだな。最後まで俺を利用して、賭けに勝った。思っていたよりも、一枚上手だな」
「その通り。あなたの記事は、私たちの仕事を非常に困難にした。だが、あの証拠がなければ、彼を追い詰めることはできなかった。あなたは、私たちが汚れるのを恐れて手をつけられなかった闇に飛び込んだ」
個人的な信頼は微塵もない。だが、プロとして、その能力と生き様は認め合っていた。
「二度と会いたくない。だが……あなたの汚れた手が必要になるかもしれない。それまで、せいぜい生き延びることね。」
佐藤は立ち上がった。
佐藤が去った後、リョウはスマホを取り出す。画面には、ファントムが逃亡後、SNSの裏アカウントに投稿した、新しい金融システムの立ち上げを匂わせる挑発的なメッセージが残されていた。
「まだ仕事は終わっていない。」
リョウは煙を吐き出し、夜の街へと消えていった。彼の闘いは、終わらない。




