第1話 PHANTOM WALLET(ファントム・ウォレット)
リョウのアパートには、朝でも夜でも関係ない。窓の外は、絶えずどこかの排気口から立ち上る蒸気と、都市の喧騒が混じり合う、薄いグレーの景色だ。テーブルの上には、缶コーヒーの染みと、未払いの請求書が積み重なっている。
壁一面に貼り付けられた資料の中心には、前田 信二、通称ファントムの端正な顔写真があった。
「金はデジタルになっても、腐る匂いは変わらねぇな」
リョウは煙草に火をつけた。安いフィルターが焦げる匂いが、アパートのよどんだ空気をわずかに切り裂く。前田が仕組んだ「ファントム取引所」の詐欺。数百億の顧客資産は、ブロックチェーンという名の"透明な金庫"から跡形もなく消えた。被害者たちは泣き叫び、メディアは"世紀のハッキング"だと騒いだ。だが、リョウには分かっていた。ハッキングではない。これは、裏切りだ。
リョウは、ブロックチェーンのアドレスが羅列された紙を指でなぞる。デジタルな追跡は、途中で途切れていた。資金はいくつものウォレットに小分けにされ、匿名性の高い"ミキシング・サービス"を経由し、完全に撹拌されていた。
「システムが完璧なほど、そこに触れる人間は不完全になる。(奴が残した痕跡は、コードではなく、人間の欲望と恐怖だ)」
彼の目的は一つ。このスクープを最大のメディアに売りつけ、生活費の足しにすること。そのためには、金融庁の官僚や警察の手が届かない、“オフチェーン”の証拠が必要だった。
その夜、リョウは薄汚れたジャケットを羽織り、ポケットに小型の録音機を忍ばせた。行き先は、闇の金融ブローカー、コンドウが根城にしている歓楽街の裏路地だ。
雑居ビルの地下、違法な私設換金所。蛍光灯の光がちらつき、床には濡れた靴跡が点々と残っている。リョウは、威圧的な黒服に囲まれた中で、ブローカーのコンドウと向き合っていた。コンドウの顔は影に覆われ、声は低く、油断がない。
「お前、命知らずだな。ここに乗り込んできた記者は、お前で二人目だ。最初の一人は、今頃暗号資産の墓場で眠ってるぞ」
リョウはテーブルに両肘をつき、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「眠る場所は選べないが、あんたは違う。ファントムは、あんたみたいな手垢のついた古い道具を使い捨てにする。資金が完全に消えた後、当局が最初に叩くのは、デジタルじゃない裏口、つまりあんただ」
コンドウの顔が一瞬、引きつった。リョウは続けた。
「奴の詐欺は、オンラインで完結していない。必ず、現金化のプロセスが必要だ。あんたは奴の"金庫番"をやっていた。知ってるはずだ。奴が、自分の資金をどうやって洗浄しようとしているか。いつ、どこで、誰が、物理的な現金を動かすのか」
コンドウは沈黙し、目の前の酒を煽った。
「...何が欲しい」
「金の最終的な行き先。そして、ファントムが"誰の指図"で動いているか。デジタルじゃなく、あんたのその目で見た真実だ。命を買うには、それだけの対価がいる」
コンドウは静かに話し始めた。ファントムが資金洗浄の最終段階で使おうとしているルート。そして、その裏には、ファントムが個人的な復讐のために利用しようとしている、元婚約者の存在があることを。
「奴は、感情的に弱い人間をそばに置く。それが唯一のミスだ」
リョウはコンドウの言葉を胸に刻んだ。その瞬間、換金所のドアがけたたましく開け放たれ、屈強な男たちが飛び込んできた。
「裏切り者がいるぞ!」
リョウは即座に立ち上がり、テーブルを蹴り飛ばした。闇のブローカーとの取引は、常に裏切りと暴力で終わる。リョウは、背後で起きる混乱と銃声を聞きながら、狭い通用口へと走り出した。彼の手の中には、命がけで手に入れた、ファントムの感情的な弱点という名の情報が握られていた。
翌朝、ニュースサイトには「歓楽街で銃撃戦、負傷者複数」の文字が躍っていた。
リョウは薄汚れたカフェの隅で、その見出しを眺めていた。
記事には“匿名の情報提供者”という一文が添えられている。
「匿名ね……」
画面を閉じると同時に、眠気よりも冷たい焦燥が背を這った。
リョウは、ろくに眠っていなかった。頭の中では、コンドウが言った「元婚約者」という言葉と、ファントムが過去の宣伝動画の音声あの人を引き込むような声が繰り返される。手に入れたばかりの情報を頼りに、リョウはひとまず公的な組織の反応を見るため、週末に都内のホールで開かれる「ファントム取引所被害者の会」へと足を運んだ。
ホールは熱気に包まれていた。壇上では被害者の一人が、ファントムへの怒りをぶちまけている。リョウは壁際で、被害者の感情的な叫びを録音しながら、会場全体を見渡した。
この会合の議論を誘導し、プロの調査官の反応を見るため、事前に会場の壁に、複雑な資金流出の仕組みと疑惑のウォレットアドレスを整理した紙を貼りつけていた。
会場の隅、目立たない場所に立つ一人の女性。彼女は他の被害者たちと異なり、壇上ではなく、リョウが貼ったその紙を冷静に観察している。彼女の目は、感情ではなく、数字とパターンを追っていた。
リョウは録音機をオフにし、彼女の隣へ歩み寄った。
「失礼。あなたは、ただの被害者ではないですね」
女性はリョウを見上げる。その瞳は鋭く、一瞬で強い警戒心を湛えた。
「何の御用ですか?」
「俺はリョウ。フリーの記者だ。あなたは、あの演説よりも、この資金移動のパターンに興味があるようだ。金融庁の方ですか?佐藤 瞳さん」
女性、佐藤は、一瞬の動揺も見せずに答えた。
「違います。私はただの、一人の債権者です。なぜあなたが私の名前を...そして、あなたの情報はどこから」
佐藤は公的な身分を隠そうとしたが、リョウはそれをあざ笑うように続けた。
「債権者にしては、目の奥に光が見える。そして情報源か?俺の情報源は、あんたらの手の届かない場所にいる。例えば、ファントムが裏で金を洗浄するために使っている"ブローカー"だ」
リョウは、懐からコンドウから手に入れた偽の登記簿の写しを取り出し、佐藤の視界に入るようにさっと見せた。
「これは、ファントム取引所の設立に関する偽の登記簿の写しだ。あんたらがまだ『ハッキング被害の可能性』なんて、ぬるい調査をしている間に、奴は最初から詐欺を仕組んでいた。俺は、これ以上の証拠を握っている」
佐藤は初めて、リョウから目を離し、登記簿の写しに視線を落とした。偽造のレベルは高かったが、確かに公的な記録と異なる部分があった。
「その情報を、なぜ私に見せる?」
「等価交換だ。あんたが欲しいのは、俺のスクープという名の金じゃない。俺が泥をかぶって持ってきた生きた証拠だ。そして、俺はあんたの権限が欲しい。俺一人じゃ、あいつは国際的な闇に消える。俺は報道の権利を手に入れる。あんたは、俺が提供する非公然な情報で奴を刑事告発まで持っていく。それが、プロの仕事だろ」
リョウの言葉には、飢えた獣のような切実さがあった。金欠という彼の動機が、彼をどこまでも大胆にさせている。
佐藤は登記簿の写しから顔を上げ、リョウをじっと見つめた。
「...わかった。私は証券取引等監視委員会(SESC)の佐藤だ。あなたの情報は、極秘に調査する。ただし、約束して。あなたの独断が、刑事告発のタイミングを狂わせるような報道はしないと」
リョウは煙草を取り出し、口にくわえたが、火はつけなかった。
「約束はできない。だが、あんたらの手が届かない場所に、俺が行く。それが、フリーランスの仕事だ。あんたの言うルールは、金の匂いを消してくれるわけじゃない」
二人の間に、信頼のない、冷たい協力関係が成立した。リョウは、コンドウの情報と佐藤の権限を使い、ファントムの元婚約者という感情的な弱点を追うため、次へと進むことを決めた。




