第5話 煉獄の夜
深夜2時過ぎ。
台風の暴風雨が叩きつける、ガタガタと窓ガラスが悲鳴を上げていた。
本当の脅威は、嵐ではない。
門を乗り越え、この屋敷に侵入してくる“客”だ。
「……灯油タンクは?」
「ガレージに4缶、満タンのものがあります」
瑛人の声は震えているが、足は動いていた。
地下室を飛び出し、行動を開始した。
ガレージから18リットルの灯油缶を両手に提げてリビングへ戻る。
ドクドクという不吉な音を立て、琥珀色の液体を床にぶちまけた。
高級なペルシャ絨毯・フローリングが、瞬く間に油に濡れて黒く染まっていく。
メインは玄関ホール、そして地下室への階段付近だ。
侵入者の退路を断ち、地下の“秘密”を隠蔽するために、ここを火元にする必要がある。
「瑛人、愛梨。荷物は積んだか!」
「はい! パパのベンツじゃなくて、目立ちにくい僕たちの送迎用ワゴンに載せました」
「よし、車に乗り込んで。エンジンをかけて待機だ。俺が戻るまで絶対に動くなよ」
子供たちをガレージへ走らせ、最後の一缶を持って、玄関ホールに身を潜めた。
家の中は、ガソリンスタンドのような強烈な揮発臭で満たされている。
その時。
バリン! という鋭い破砕音が響いた。
1階の勝手口のガラスが割られた。
靴音が、廊下をゆっくりと踏みしめてくる。
静かにリビングの柱の陰に隠れ、呼吸を殺した。
侵入者がリビングに入ってくる。
大柄な男だ。
雨に濡れた黒いスーツ。
手には警棒……いや、形が違う。
先端にサプレッサーを装着した拳銃だ。
ただの使いっ走りじゃない。
本職の“始末屋”だ。
男はリビングを見渡し、鼻をひくつかせる。
「……オイルの臭い」
男が低い声で呟く。
「それと、腐敗臭か。……なるほど、壮一郎の奴、へまをやりやがったな」
男は状況を瞬時に悟ったようだった。
如月壮一郎が何者かに消され、死体が腐敗していること。
そして、誰かが証拠隠滅を図ろうとしていることを。
男が銃を構え直し、地下室への扉に向かって歩き出す。
今だ。
「おい、そこまでだ」
柱の陰からユックリと姿を現し、両手は挙げているが右手のライターだけは握りしめたままだ。
男が振り向きざまに銃口を向ける。
「ッツ」速い。
「……誰だ、てめえは」
「ただの掃除屋だよ。家主から《店じまい》の手伝いを頼まれてね」
ヘラッと笑ってみせた。
「アンタも客か? 残念だが、主人はもう面会できる状態じゃない。地下で腐っちまってるよ」
「ほう。……ガキどもはどうした?」
「さあな、来た時には誰もいなかった。……俺も、これから火をつけてズラかる所なんだよ」
灯油で濡れた絨毯を顎でしゃくった。
「アンタの雇い主――大河原先生にとっても、この家が丸ごと燃えた方が好都合だろ? 死体も、裏帳簿も、全部灰になる」
大河原の名前を出した瞬間、男の目が細められた。
殺意の光だ。
「知らなくていいことまで知ってる掃除屋か。……生かしてはおけねえな」
男の指がトリガーにかかる。
その瞬間を待っていた。「あぁ、生かしておくなよ。……道連れにしてやる!」
持っていたオイルライターを着火し、自分の足元へ放り投げた。
ボッ!!!
爆発的な音がして、オレンジ色の炎の壁が一瞬で立ち上がった。
「うおッ!?」
男が腕で顔を覆い、後ずさる。
揮発した灯油ガスに引火し、リビングは瞬く間に煉獄と化した。
火は生き物のように壁を這い上がり、地下室への扉を塞ぐ。
「クソがッ!」
男が炎の向こうから発砲した。
ヒュッ、と耳元を熱い風が切り裂く。
だが、燃え盛る炎と黒煙が視界を遮り、正確な狙いはつけられない。
煙を吸わないよう姿勢を低くし、炎の回廊を走り抜ける。
背後で男が咳き込みながら罵倒している声が聞こえてくる。
この火勢なら、やつも撤退せざるを得ないだろう。
廊下を駆け抜け、ガレージへのドアを蹴破る。
「葉山さん!」
ワゴンの後部座席から、愛梨の悲鳴に近い声が飛んできた。
運転席に飛び乗り。
「伏せてろ! 舌噛むなよ!」
エンジンを吹かし、アクセルを床まで踏み込んだ。
急発進した車は、閉じたままのガレージシャッターへと突っ込み。
凄まじい衝撃音と共に、薄いアルミ製のシャッターがひしゃげ、弾け飛ぶ。
ドガァァァァン!!
破片をまき散らしながら、車は暴風雨の夜へと躍り出た。
ワイパーを最速にしても視界が利かないほどの豪雨だ。だが、今はそれが有難い。
追手の視界も遮ってくれるからだ。
バックミラーを見ると。
夜の闇の中、紅蓮の炎に包まれた豪邸が遠ざかっていく。
1階の窓が熱で割れ、炎の舌が外へと溢れ出していく。
かつて如月夫婦が、安全な場所からワイン片手に眺めていた《他人の火事》。
今夜、彼らは自らが炎の渦中で、その身を焼かれることになる。
後部座席を見る。
瑛人と愛梨が、リアウィンドウに張り付き、燃える我が家を見つめていた。
その顔は炎の照り返しで赤く染まっていたが、涙はもう流れていなかった。
「……さよなら」
瑛人がポツリと呟いたのが、雨音越しに聞こえた気がした。
それは親への別れか、それとも《かつての自分》への訣別か。
「葉山さん……」
愛梨が身を乗り出してきた。
手には、《汚れた現金》の入ったバッグと、《証拠データ》が握られている。
「私たち、これからどこへ行くの?」
行き先は決まっている。
ただ逃げるんじゃない。
これからが、俺たちの本当の反撃だ。
「……安全な場所へ。そして、お前たちの物語を“書き換え”に行く」
「書き換える?」
「ああ。明日の朝刊、世間は驚くぞ」
ニヤリと笑う。
滝沢の顔が浮かぶ。どんな顔をするだろうか。
燃え上がる屋敷には、今頃“始末屋”が立ち尽くしているはずだ。
警察や消防が駆けつける頃には、全ては灰の中。
現場に残されるのは《大河原に関わる男“始末屋”の目撃情報》と、“無理心中”あるいは口封じに見える死体。
シナリオは完璧だ。
雨の首都高へと車を滑らせる。
背後の炎天は、もう見えなくなっていた。




