第4話 業火の狼煙
地下室への階段は、地獄の咽頭のように暗く、湿っていた。
一歩下りるたびに、その奥底から吐き出される甘ったるい腐臭が、生温かい息となって顔を撫でる。
台風による停電で換気扇が止まり、密閉された空間で死の臭いが充満しているからだ。
スマホのライトをかざす。
先頭を歩いて、後ろからは瑛人と愛梨が静かについてくる。
もう二人に武器はない。
あるのは、縋るような視線だけだ。
突き当たりの重厚な防音扉を開ける。
ムッとした熱気が顔に張り付いた。
かつて裏金で買われた、高級ワインが眠っていた棚。
その中央の床に、ブルーシートに包まれた《二つの塊》が転がっていた。
「……父さんが、ワインを飲んで酔っ払っていたところを、僕がスタンガンで気絶させて……首を絞めた」
瑛人が背後で淡々と語り始めた。
「母さんは、悲鳴を上げようとしたから、愛梨が……口を押さえて」
「私が、クッションを押し付けたの」
愛梨が小さな声で継いだ。
「ママ、暴れて私の手を引っ掻いたけど……タケル君のこと思い出したら、力が抜けなかった」
ライトでシートを照らす。
めくる必要はない。
隙間から見える赤黒く変色した皮膚と、周囲に散らばるワインの瓶――いや、吐瀉物と失禁の跡が、死の無様さを物語っていた。
他人の死を嘲笑い、金を貪った怪物たちの末路がこれだ。
「……怖かっただろう」
殺害の是非など問わない。
14歳と10歳の子供が、自らの手で親を殺し、その死体と共に数日間この家で暮らしていた。その精神的負荷は計り知れない。
「怖くありません」
瑛人が強がった。
「こいつらはゴミです。処分しただけです。……ただ、計算外だったのは」
「台風か」
「はい。今日、焼却炉で焼く予定でした。でも、この雨と風じゃ火が点かない。それに停電で、遺体の腐敗が一気に進んで……」
瑛人の声が震えていた。
完璧だったはずの計画が崩れ、子供の無力さが露呈する。
「もう限界だ。この臭いは、明日には近隣に漏れる」
「警察が来れば、お前たちは少年院行きだ。情状酌量はつくかもしれないが……“親殺し”のレッテルは一生消えない」
「覚悟の上です!」
瑛人が叫んだ。
「僕たちが捕まって、……あのデータを世に出したい。タケル君の無念を晴らしたいんだ!」
「馬鹿野郎」
瑛人の胸倉を掴み、壁に押し付けた。
「痛ッ……」
「お前らが捕まって、それで世間が同情してくれると思うか? マスコミは面白おかしく書くぞ。《資産家の子供が遺産目当てで凶行》《現代のモンスターチルドレン》ってな! 親の悪事なんて、お前らのスキャンダルにかき消されるんだよ!」
かつては記者だったからこそ、世間の掌返しも、真実がいとも簡単に捻じ曲げられる様も見てきた。
「お前らが犠牲になる必要なんてない。……生きるんだよ。生きて、タケル君の分まで幸せにならなきゃ嘘だろ」
瑛人の目から涙が溢れ、俺の手を弱々しく掴んだ。
「でも……どうすれば……」
手を離し、二人の頭にポンと手を置いた。
「俺に任せろ。……掃除の時間だ」
脳内のギアを切り替える。
今の状況を整理する。
あるもの:腐乱死体二つ。放火の証拠データ。台風の暴風雨。
ないもの:電力。時間。
「瑛人。この家のガレージに車は何がある?」
「父さんのベンツと、母さんのポルシェが……」
「よし。瑛人、お前はポルシェのトランクに、あの《汚れた現金》と、親のパスポート、着替えを詰め込め。あくまで“急な海外逃亡”に見せかける」
「逃亡……?」
「そうだ。シナリオを変えるぞ」
ニヤリと笑ってみせた。悪党の顔だ。
「両親は殺されたんじゃない。《過去の悪事がバレるのを恐れて、夜逃げした》ことにする」
「でも、死体はどうするの?」
愛梨が不安そうに見上げる。
「このままここに置いておくわけにはいかない。……運び出すぞ」
その時だ。
ズズズ……という重低音が響き、スマホが振動した。
瑛人のポケットからだ⁈
瑛人が画面を見て、顔面蒼白になった。
「……電話」
「誰からだ?」
「“大河原事務所”……父さんが取引してた、政治家」
最悪のタイミングだ。
瑛人からスマホを奪い取り、画面を見る。
時刻は深夜2時。
こんな時間に電話をかけてくるということは、向こうも焦っている証拠だ。
「出るな。切れるのを待て」
息を潜める、長いコール音の後、ようやく静寂が戻った。
だが、すぐに“ピロン”という電子音が鳴り響いた。
インターホンではない。
スマホのメッセージ着信音だ。
《如月さん。電話に出られないようなので、直接伺いました。門を開けてください》
三人の背筋が凍りつく。
地下室を飛び出し、1階の玄関ホールへと駆け上がった。
リビングの窓の隙間から、外を覗く。
豪雨の中、屋敷の門の前に、黒塗りの高級セダンが停まっていた。
ヘッドライトが雨粒を照らし出しながら、ハザードランプが点滅している。
運転席から、大柄な男が降りてくるのが見えた。傘もささず、インターホンに向かって手を伸ばしている。
「……来たか」
政治家・大河原の私設秘書、あるいは雇われの始末屋だろう。
如月壮一郎と連絡がつかないことを不審に思い、証拠隠滅か、口封じに来たのだ。
もし中に入られれば、地下室の惨状も見つかる。子供たちも消される。
「葉山さん……」
追いついてきた瑛人と愛梨が、ガタガタと震えている。
外の男は、インターホンに応答がないとわかると、門を乗り越えようと手をかけた。
「時間がない」――覚悟を決めた。
この死体、そしてこの屋敷。
すべてを“武器”に変えるしかない。
「瑛人、愛梨。よく聞け」
二人の肩を強く掴んだ。
「今から《大掃除》を始める。……人生で一番、派手な掃除だ」
「何をするの?」
「奴らが中に入ってくる前に、俺たちが先手を打つ。……ガソリンはあるか?」
「えっ……?」
「焼却炉用の灯油なら、ガレージにタンクがあるけど……」
「それで十分だ」
窓の外の黒塗りの車を睨みつけた。
「奴らが一番見られたくないものを、一番派手な形で見せてやる。……この家ごと、全部燃やすぞ」
これが、起死回生のシナリオ。
放火で人を殺した親の家を、業火で焼き尽くす。
それは証拠隠滅であり、同時に、世間への巨大な「狼煙」となるはずだ。
「行くぞ。……執行の時間だ」




