第3話 密閉の家
8月15日。
台風の直撃で、屋敷は暴風雨の檻に閉じ込められていた。
窓ガラスを叩く雨音が、まるで無数の拳のように屋敷を揺らしている。
気圧が急激に下がり、この家の《密閉》を破り始めていた。
「……臭うな」
リビングに入った瞬間、鼻を覆いたくなる衝動を抑えた。
高級アロマの香りでも隠しきれない、甘く、鼻の奥に粘りつくような腐敗臭。
発生源は明白だ。リビングの奥、厳重にロックされた地下ワインセラーへの扉。
「チーズの発酵が進んでいるようです」
瑛人の声がした。彼はソファに座り、教科書を開いていたが、その視線は虚空を彷徨っていた。
いつもなら完璧なポーカーフェイスが、雷鳴が轟くたびに微かに引きつるのを見逃さなかった。
「随分と生きのいいチーズだな。……瑛人君、一度中を確認した方がいいんじゃないか?」
「結構です。地下の管理は僕がやります」
瑛人は俺を見ようともせず、頑なに拒絶した。
「葉山さんは、2階の書斎をお願いします。父の書類関係を全て『燃えるゴミ』にしてください」
彼は焦っている。
今日が決着の日だ。勘がそう告げている。
何も言わず、階段を上がり、書斎に入り、如月壮一郎のデスクに向かった。
作業をするフリをして、引き出し、本棚の裏、床下収納を徹底的に探る。
滝沢の情報通りなら、この男は単なる投資家じゃない。再開発利権に絡む《汚れ仕事》の資金管理役だ。必ず裏の顔を示す証拠があるはずだ。
見つけたのは、壁の絵画の裏に隠された小型金庫だった。
ピッキングで解錠する。
中に入っていたのは帯封のついた大量の現金と、一つの外付けHDDだった。
持参していたノートPCにHDDを接続する。
フォルダには日付だけが記されている。
『2023.10.05 K商店街』
『2024.02.14 第3地区』
動画ファイルを再生する。
映し出されたのは、手ブレのひどい映像だった。夜の路地裏。覆面の男たちが、古い木造アパートにガソリンを撒いている。
次の瞬間、爆発的な炎が建物を包み込んだ。
撮影者の男が、電話で報告している声が入っている。
『へい。予定通り点火しました。……ああ、中に人は残ってても構わねえって話でしたよね?』
「……クソ野郎が」
吐き捨てるように呟く。
見覚えがある。
これは現役時代に取材した、万博再開発エリアの連続不審火だ。
警察は“火の不始末”で処理したが、現場の焼け方は明らかにプロの仕業だった。
だが、マスコミは圧力をかけられ、深く突っ込むことを禁じられた。
あれは記者人生の中でも、特に後味の悪い「未解決事件」の一つだ。
この動画は、実行犯が報酬を受け取るための“証拠映像”であり、同時に如月壮一郎が、実行犯や背後の政治家を裏切らせないための“保険(脅しのネタ)”なのだろう。
自分が手を汚さず、金で他人の命を燃やし、それを切り札として金庫に眠らせておく。
その時、HDDのフォルダの中に、音声データがあるのに気づいた。
日付は、あのアパート火災の翌日。
再生ボタンを押す。
『――壮一郎。例の件、片付いたそうね』
母親の声だ。冷たく、刺々しい。
『ああ。立ち退き交渉に数億かけるより、数百万で燃やした方が早い』
『ふん。手荒なこと。……で、報酬は? ちゃんと口座に入ったの?』
『入ったよ。ほら、お前の手切れ金……じゃなかった、ドレス代だ』
『あらいやだ。私に触らないで。あなた、何だか焦げ臭いもの』
『なんだと? 誰のおかげで……』
『うるさいわね。金さえ入れてくれれば、あなたが外で放火しようが人殺ししようが興味ないわ。さっさとシャワー浴びてきて』
乾いた会話。
あるのは互いへの軽蔑と、金への執着だけ。
――ガチャリ。
背後でドアが開く音がした。
「……消して」
振り返ると、入り口に瑛人が立っていた。
手には懐中電灯……ではなく、護身用の警棒が握られている。
いつも冷静な少年の顔が、今は怒りと絶望で歪んでいた。
「瑛人君。これは……」
「僕の友達が住んでたんだ!!」
瑛人が叫び、PCの画面を指差した。
「タケル君だ。……工場の経営が傾くまでは、よくウチに遊びに来てた。僕にとって唯一の、本当の友達だったんだ」
瑛人が、震える足で一歩踏み出す。
「タケル君は、あのアパートで死んだ。……なのに、父さんは『安く片付いた』って言ったんだ。母さんは『焦げ臭いからあっち行って』って、それだけ!」
瑛人は嗚咽を漏らした。
「人が死んだのに……父さんも母さんも、タケル君のことを『ゴミ』みたいに扱って、自分たちの金の心配しかしてなかった!」
この少年が見た地獄。
それは、親友を殺されたことだけではない。自分の親が、その命の重さを欠片も感じていない、心が空っぽの人間だったという事実。
しかも、両親はお互いのことすら愛していなかった。この家には、最初から愛なんてなかったのだ。
「だから……殺したのか」
静かに問うと、瑛人は激しく頷いた。
「許せなかった。僕たちのことも、どうせ道具としか思ってない。……こいつらは人間じゃない。だから僕が処分したんだ!」
瑛人が警棒を振り上げる。
「あんたも、 ……生かしては返せない」
殺意。
だが、それはあまりに脆く、悲しい殺意だった。
彼が飛びかかってくるのを、正面から受け止める覚悟を決めた。
「来い、瑛人!」
「うあぁぁぁぁッ!」
瑛人が突っ込んでくる。
その一撃が届く前に、停電の闇に吸い込まれた。
ドォォォン! という雷鳴と共に、屋敷の全電源が落ちたのだ。
完全な暗闇と静寂。
そして、空調が止まったことで、下から這い上がってくる濃密な腐敗臭。
その時、暗闇の中で小さな光が灯った。
懐中電灯の光だ。
照らし出されたのは、瑛人ではない。
入り口に立つ、妹の愛梨だった。
「……愛梨」
瑛人が動きを止める。
「お兄ちゃん。もういいよ」
愛梨が一歩、部屋に入ってくる。
「パパたちがタケル君のことを笑ってたの。ママが『新しいバッグが買える』って喜んでた。……私、タケル君のこと大好きだったから。絶対に許せなかった」
妹もまた、この家の冷たさと親の異常性を理解していたのだ。
「……葉山さん」
瑛人が警棒を取り落とした。殺意が消え、ただの傷ついた子供の顔に戻る。
「地下室の冷却装置が止まりました。もう隠せない。……父さんと母さんが、腐り始めてる」
愛梨から懐中電灯を受け取り、二人を照らした。
兄と妹。寄り添う二人の影が、壁に長く伸びている。
彼らに近づき、瑛人の細い肩を掴んだ。
「隠す必要はない」
「え……?」
「俺も知ってる。この火事のことは、ずっと胸につかえてた」
データをコピーしておいたUSBを抜き取った。
「これは俺が預かる。……瑛人、愛梨。君たちがやったことは罪だ。だが、その引き金を引かせたのは、この腐った社会と、俺たち大人の責任だ」
心臓が熱く脈打っていた。
この幼い共犯者たちを、ただの親殺しとして終わらせるわけにはいかない。
暴くべきは《社会の闇》だ。
「行くぞ、二人とも。地下室へ」
「……何をするつもりですか」
「親の尻拭いじゃない。……ケジメをつけに行くんだ」
瑛人と愛梨、二人の小さな手を引いた。
その手は氷のように冷たかったが、俺が握り返すと、二人とも微かに握り返してきた。
外の嵐は、まだ止みそうになかった。




