第3話 静寂の街
街は、雨が上がりまだ湿った空気をまとっていた。
歩道の水たまりにビルの光が揺れ、街全体がどこかざらついた質感を帯びている。
リョウはポケットに手を突っ込み、スマホを片手に駅前を抜ける。
画面には、古い位置情報──「東都第三区・港倉庫街」の地図が開かれていた。
『何か残っているはずだ……』
自然に彼の足は、かつて廃倉庫が並んでいた通りへ向かう。
かすかな焦げ臭さ、湿った鉄の匂い、そして街のざわめき──
それらがまるで、過去の記憶と重なるかのように感じられた。
通りを歩くリョウの目の端に、黒いフードをかぶった人影がちらつく。
「……またか。」
振り向くと、誰もいない。しかし、視線を感じる。
胸がざわりと冷たくなる。
倉庫の一角。
壊れたカメラ、焼け焦げたノートPC、散乱するUSBメモリの残骸。
まるで、何かの痕跡を誰かが消し去ろうとしたかのようだ。
リョウは腰をかがめ、散乱した資料をスマホで撮影する。
かすかに残る文字の断片が、光の角度によって浮かび上がる。
『U.L.=政府内部通信?』
『沈黙プロジェクト』
『“見せられる真実”と“見せられない真実”』
その瞬間、通りの空気が微かに揺れた。
人々の足音や車の音が、一瞬だけ遅れる──まるで現実が波打ったかのように。
立ち上がり外を見渡す。
遠くの交差点で、パトカーのサイレンが鳴る。
普段なら気にならないはずの雑音が、今は何かを告げているように感じられた。
──誰かが、街の空気そのものを操っている?
リョウは静かに、スマホの画面を指でなぞる。
目の前に広がる街並みとスマホの地図。
その時、視界の端に再び人影。
黒いフードの女性。距離はまだ遠い。
しかし、視線がこちらを追うのを感じる。
近づこうとする足が止まった。
「……誰だ、お前は。」
答えは返ってこない。
数歩進むと、彼女の姿は通りの向こうに消える。
ただ、街のざわめきと水たまりに映る光だけが残った。
ポケットの中の手を握りしめ、静かに息を吐く。
この街は、もう以前のままではない。
駅前の喧騒を抜け、街路灯の淡い光に照らされる裏通りを歩く。
ポケットの中のスマホを握りしめ、倉庫で見つけた文字の断片を思い返す。
『“沈黙プロジェクト”……そしてU.L.』
そのとき、横の路地から声がかかった。
「……あなた、葉山凌さんですよね?」
振り向くと、スーツ姿の女性が立っていた。
肩までの黒髪、白い肌、透明感のある瞳──街の灯りに溶けるように輝く。
「……あなたは?」
警戒しつつ問うリョウ。
「深川紗也です。情報監視審査会の……秘書、です。」
政治家の秘書を名乗る人物だった。
声は静かだが、どこか芯の通った響きがある。
小さく息を吐き、紗也は続けた。
「滝沢さん、あなたに何かを伝えようとしていました?……“あの話”を。」
リョウの眉がぴくりと動く。
「“あの話”? 具体的には?」
紗也は首を振り、慎重に言葉を選ぶ。
「今ここで詳しくは話せません。ですが、滝沢さんの死は……偶然ではない可能性があります。
あなたも、気づいているはずです。現実が……操作されていることに。」
リョウは無言で頷く。
「……分かった。で、俺に何をしてほしい?」
紗也の目がわずかに鋭く光る。
「“UNDERLINE”の存在を、知る人は限られています。あなたに協力してほしい。」
二人の間に沈黙が落ちる。
街路の雑音だけが、遠く聞こえる。
その時、紗也はリョウの背後、通りの端に黒いフードの女性の影を見ていた。
リョウが振り返ると、一瞬視線が交錯する。
距離を詰めようとする視線に応えるかのように、彼女は人混みに溶け込むように消えた。
紗也は静かに小さな封筒を差し出す。
「これを。倉庫で見つかったものの補足です。
あなたが必要なものだけを選んで持っていてください。」
封筒の中には、滝沢が残した小さなUSBメモリと紙資料。
リョウは手に取り、感触を確かめる。
「……ありがとう」
低くつぶやき、封筒をポケットにしまう。
紗也は振り返り、暗い路地の奥へ歩き出す。
「これからが真実との戦いです。」
リョウはその背中を見送りながら、ポケットのUSBに手を伸ばす。
街のざわめきの中、現実と虚構が混ざり合う影の中で──
滝沢の死が示した“沈黙の底”の真実を、追う覚悟を決めた。
夜の街。
歩道を歩くリョウの手には、USBがしっかりと握られている。
街路灯の光が濡れたアスファルトに反射し、細かく揺れる。
その時、視界の片隅で違和感が走る。
LEDディスプレイの文字が一瞬だけ歪んだ。
一瞬、息を止めた。
別の文言に変わったように見えた。
「……幻覚か?」
スマホが振動する。通知はない。
しかし、SNSアプリを開くと、数分前にはあり得なかったトレンドワードが急浮上していた。
『#滝沢の死は事故』
「何だ……?」
通行人のスマホも同じワードで点滅する。
無意識に広がる、街の意思──。
焦って駅前の広場に駆け込む。
広告パネルの映像が乱れ、過去に見たニュース映像が次々に上書きされていく。
視界の端に再び人影。
通行人の群れの中でじっとリョウを見ている。
近づこうとすると、人混みに溶け込むように消える。
胸に冷たい感覚が走る。
人々の手がスマホを動かす。無意識のうちにトレンドが拡散される。
デジタルと現実が混ざり合い、微かなノイズが街の空気に漂う。
リョウはポケットのUSBを握り直す。
風に、微細なノイズが混ざる。
遠くで囁きが聞こえた──
「見てるよ、リョウ……」
立ち止まると、群衆の中に黒いフードの女性。
一瞬、視線が交わる。
消えた、何かを告げたように。




