第12話 論理の機能不全
蒼は、震える手でポケットから皺くちゃになったメモを取り出した。それは、霧島から渡された悪魔の招待状だ。
「これが……霧島の連絡先です」
差し出されたメモを、燈子は無造作にひったくった。だが、その乱暴さとは裏腹に、彼女の声はどこまでも低く、熱を帯びていた。
「ようやった。……もう震えんでええ」
燈子はスマホで連絡しメモを部下に解析させる。
解析班はキーボードを叩き始め、電子音が重なり合い、数分と経たずにモニター上の地図に赤い点が灯る。
「出ました。湾岸エリア、再開発地区のビル。最上階です」
「カチコミの場所は決まりやな」
燈子は振り返り、蒼とマキを見た。
「行くで。アンタらの落とし前、ワシが一緒に拾ったる」
病院――ナースステーション裏。
サーバー室の冷房が、滝沢の汗ばんだ肌を冷やしていた。モニターに映るのは、改ざんされたリョウのバイタルデータ。
「……やはりな。数値だけを偽装して、俺たちを焦らせていたか」
背後で、自動ドアが開く音がした。
振り返ると、リョウの主治医が立っていた。だが、その立ち姿は異様だった。白衣の下で筋肉が不自然に膨張し、首筋には太ミミズのような血管が浮き上がっている。彼もまた、人であることを捨てさせられた“被検体”だ。
「見事ですね。ですが、知りすぎた患者には退場してもらいましょうか」
医師が笑う。腕の血管が不気味に蠢いている。手にはメスを持ち、無機質な蛍光灯の光を反射する。
「ここからは、手術の時間だ」
滝沢は静かにナイフを抜き、腰を落とした。
「……ヤブ医者が。治療が必要なのはテメェの頭だ」
湾岸エリアにそびえ立つ、ガラス張りの高層ビル。
そのエントランス前には、被検体の警備兵たちが彫像のように整列していた。彼らの瞳に光はない。脳の痛覚野を切除され、感情のない命令に従うだけの生体兵器だ。
「真正面から行けばジリ貧やな。……上等や」
ビルの影で、燈子はポキポキと首を鳴らした。そして、蒼とマキに視線を落とす。
「ええか、ワシが派手に暴れて目を引く。その隙にアンタらは裏から入って、連中の動きを止めるモンを探せ」
「でも、燈子さん一人じゃ……!」
蒼が声を上げるが、燈子はニヤリと笑ってその頭を鷲掴みにした。
「早よ行け! ワシを誰やと思うとる!」
次の瞬間、燈子は咆哮と共に飛び出した。
「っしゃあ! 殴り込みじゃアホンダラァ!」
轟音。
燈子の蹴りが被検体を吹き飛ばし、ガラスの自動ドアが粉々に砕け散る。一斉に燈子へ殺到する。拳がコンクリートを削る中、彼女は鉄骨で防ぎ、蹴りで薙ぎ払いながら暴風のように突き進んだ。
その混乱に乗じ、蒼とマキは裏口の通気ダクトへと滑り込んだ。
心臓が早鐘を打つ。ダクトの中は埃っぽく、鉄の味がした。
「こっち……!」
蒼が先導する。
辿り着いたのは、無機質な研究フロアだった。
ガラスの向こうでは、白衣の研究員たちがモニターにかじりついている。
「心拍数上昇」「検体A、損傷軽微」「殲滅モード移行」
彼らの会話から、被検体たちを一括制御する存在が浮かび上がる。
「あれだ……!」
マキが指差す先。研究主任らしき男が、一台のタブレット端末を握りしめ、操作していた。あれで、外の燈子や病院の敵を操っているのだ。
「どうする? 取り上げる?」マキが焦る。
「ううん、力ずくじゃ壊されるかもしれないし、警報を鳴らされたら終わりだ」
蒼は呼吸を整えた。汗ばんだ掌をズボンで拭う。
「もう盗みはしないって決めたけど……これだけは、貰うよ!」
蒼は物陰から飛び出した。足音を消し、気配を消し、研究員の死角を風のように滑る。
研究員がコーヒーに手を伸ばした、ほんの一瞬の隙。
蒼の指先が、男の白衣をするりと撫でた。
「え?」
男が違和感に気づいて手元を見た時には、すでに蒼は端末を手に、マキの元へ駆け戻っていた。
「取った!」
「行くよ、蒼!」
二人は通気ダクトに隠れ、震える手で画面を操作する。複雑なコードが並ぶ画面。
「わ、わかんないよ! どれ!?」
「落ち着いてお姉ちゃん! ……これだ、“緊急停止(EMERGENCY)”!」
病院の裏庭。
「ハッ、ハッ……!」
滝沢は肩で息をしていた。左腕からは血が滴り落ちている。
主治医(被検体)の強さは異常だった。関節を逆に曲げ、痛みを感じず、何度斬りつけても笑いながら迫ってくる。
「終わりですか?」
被検体がメスを振り上げる。滝沢のナイフはすでに折れていた。回避する場所もない。
刃が、滝沢の首へと振り下ろされる。死の冷たさが肌を撫でた。
ビルのエントランス。
燈子もまた、限界を迎えていた。瓦礫の山の上に立っているが、満身創痍だ。増援の被検体たちが、無機質な瞳で彼女を取り囲む。
「ハァ……ハァ……。さすがに、数が多すぎるで……」
視界が霞む。膝が笑う。
「……あかんな」燈子は笑いながら呟いた。
一人の被検体が、倒れた燈子にトドメを刺そうと鉄パイプを振り上げた。
その瞬間
『コマンド承認:全システム、強制凍結』
蒼とマキが押したエンターキーが、静寂を作り出した。
ピタッ。
滝沢の首に迫った刃が、喉元でとまった。
燈子の脳天を砕くはずだった鉄パイプが、寸前で静止した。
被検体たちは糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちていく。
狂騒がやんだ戦場。
滝沢はへたり込み、大きく息を吐いた。
燈子は瓦礫の中で大の字になり、ニカっと笑った。
「……なんや、あいつら。ええ仕事するやんけ」
燈子は痛む体を鞭打ち、最上階の扉を蹴り破った。
「霧島ァァァッ!」
部屋の中央、チェス盤の前に座る霧島がゆっくりと振り返る。その表情には、初めて焦燥の色が浮かんでいた。
「計算外だ……。まさか、恐怖に支配された子供たちが、あんな連携を見せるとは」
「御託はええ。シメさせてもらおカァッ!」
燈子が最後の力を振り絞り、拳を放つ。
だが、霧島はそれを紙一重で回避し、燈子の鳩尾に鋭い膝蹴りを叩き込んだ。
「ガハッ……!?」
「君の動きは解析済みだ。所詮は野良犬の喧嘩殺法。私の演算には勝てない」
霧島はただの科学者ではなかった。彼自身もまた、肉体強化を施した超人だったのだ。燈子の首を片手で掴み上げ、締め上げる。
「ぐ……ッ、離……せ……」
「残念だよ。君たちの絆が壊れる様を見たかったが……ここで退場してもらおう」
視界が暗くなる。意識が遠のく。
その時。
「燈子さんを離せェェッ!」
通気口から飛び出したマキが、部屋にあった消火器を霧島に向けて投げつけた。
「無駄だ」
霧島はそれを左手で軽く弾く。だが、消火器の背後から――蒼が飛び出していた。
「うおおおおッ!」
蒼は霧島の腕に噛みつき、その拘束を一瞬だけ緩めた。
「なっ……!?」
それは、論理的な攻撃ではない。ただの泥臭い、子供のあがき。だからこそ、霧島の演算にはなかった。
その一瞬の隙が、猛虎を目覚めさせた。
地面に落ちた燈子の瞳に、獰猛な光が戻る。
「解析済みやと? ……人間の執念、ナメたらあかんぞ!」
燈子の渾身の頭突きが、霧島の顔面に炸裂した。
ゴシャッ、と嫌な音が響き、霧島の鼻骨が砕ける。
「ぐあッ!?」
よろめく霧島。燈子は止まらない。
「これが! ワシらの! 計算外じゃアホンダラァ!」
腹へ拳、顎へアッパー。そして最後は、全体重を乗せた回し蹴りが霧島の体を吹き飛ばした。
霧島は窓ガラスを突き破りそうになりながら壁に激突し、そのまま白目を剥いて沈黙した。
「……ッシャー、オラァ……」
燈子は拳を突き上げたまま、崩れ落ちるように膝をついた。
「燈子さん!」
駆け寄るマキと蒼。燈子は晴れやかな顔で、二人の頭を撫でた。
「ようやった。……ワシらの勝ちや」
蒼は、手の中に握りしめていたタブレットを燈子に差し出した。
「燈子さん、これ……」
「ん?」
「これ、ただのリモコンじゃない。……ここの研究データが全部入ってる。被検体の身体構造、薬の調合、それに……解除コードも」
燈子は目を見開いた後、ニカっと笑って蒼の頭をガシガシと撫でた。
「お手柄や、ボウズ! 最高やで!」
「――なっ?」
燈子が、霧島の方へ振り返る。
「ウソやろ……あのダメージで動けるんか……!?」
壁の一部が隠し扉のようにスライドしており、そこから冷たい夜風が吹き込んでいる。床には点々と血が続いているが、それは闇の中へと消えていた。
深追いしようと立ち上がる燈子だが、激痛に顔を歪めて膝をつく。
「くっ……逃げられたか……!」
病院では、動かなくなった主治医をUNDERLINEの回収班に引き渡した滝沢は、急いでICUへ戻った。
「滝沢さん!」
真白が泣きそうな顔で駆け寄る。
滝沢が恐る恐る病室を覗き込むと、そこにはモニターの安定した波形と共に、穏やかな寝息を立てるリョウの姿があった。
滝沢は壁に背を預け、長く、深く息を吐いた。
「……終わったな」
翌日。
病院は何事もなかったかのように日常を取り戻していた。UNDERLINEの徹底した情報操作により、昨夜の死闘は「設備点検中の事故」として処理された。
柔らかな日差しが差し込む病室。
リョウの指先が、ピクリと動いた。
「……ん……」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。眩しそうに目を細めた先に、心配そうに覗き込む二つの顔があった。
「……蒼……? マキちゃん……?」
掠れた声。だが、確かにリョウの声だ。
「リョウさん……! リョウさん……ッ!」
蒼とマキは、言葉にならず、ただリョウの胸に縋り付いて泣きじゃくった。温かい。生きている。その鼓動が、手のひらに伝わってくる。
その様子を、廊下のガラス越しに燈子と滝沢、真白が見守っていた。
「やれやれ。涙も枯れるほど泣いとるな」
燈子が包帯だらけの腕を吊りながら、痛そうに、でも嬉しそうに笑う。
「ええ。ですが、彼らの絆は、以前よりずっと強固なものになったようですね」
真白がコーヒーを燈子に手渡す。
「霧島の言うた通りかもしれん。恐怖は人を繋ぐし、希望は人を狂わせる」
燈子はコーヒーを啜り、眩しそうに病室の三人を見つめた。
「せやけど、その先にある“信頼”っちゅうバグは……どんなプログラムでも解析不能な強さを持っとるんやな」
「……野蛮な。……これだから、感情で動く獣は嫌いなんだ」
完璧だった顔立ちが、無様に腫れ上がっている。
「楽しみにしていろよ、被検体ども。実験は、まだフェーズ1が終わったばかりだ」
嗤う。負け惜しみのように、あるいは新たな玩具を見つけた子供のように。
エンジンの駆動音だけが低く響き、闇の底へと消えていった。




