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アンノウン(UNKNOWN)  作者: ニート主夫
第2章

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第9話 存在証明はいらない

ビルの屋上。

夜風にコートをはためかせながら、霧島は眼下の路地を冷ややかな目で見下ろしていた。

彼は耳元のインカムに指を添え、短く告げた。


「……始めようか。UNDERLINE相手なら、いい実戦データが取れそうだ」


『了解。バイタル、正常。脳波同期率、クリア』


無機質な応答が返ってくる。

ビル内部の制御室では、白衣を着た研究員たちがモニターを監視し、非人道的なプログラムを実行に移していた。


『拘束制御、解除。――被検体、投入します』


重々しい駆動音と共にビルの通用口が開き、闇の中へ数人の男たちが吐き出された。

彼らの首元には、商品タグのような無機質な識別コードが振られている。

捨て駒のランクC、身体能力強化型のランクB。そして、その奥に控えるのは――。


「行け」


研究員の声がスピーカーから響くのと同時に、ランクBの被検体サンプルたちが、人間離れした速度でアスファルトを蹴った。

獣のような咆哮。だが、その目は死魚のように濁り、感情の色がない。


路地裏の空気をつんざくような中、一人の女が前に進み出た。


「……騒がしいのぉ。夜這いにしちゃぁ、愛想のない連中や」


燈子とうこだ。

彼女はポキポキと指の関節を鳴らすと、不敵な笑みを浮かべて背後の部下たちに顎をしゃくった。


「好き勝手してタダで済む思たら大間違いやで。この落とし前、きっちりつけさせてもらおか。――ワイの出番やな」


燈子の号令と共に、UNDERLINEの精鋭たちが飛び出した。

市街地での発砲を避ける判断と、燈子自身の美学による、純粋なステゴロ(素手喧嘩)だ。


「せいっ!」


燈子の鋭い回し蹴りが、先頭の男の側頭部を捉える。

バヂンッ! と肉が弾ける音が響き、男の首が異様な角度に曲がった。

常人なら即死、あるいは昏倒する一撃。


だが――男は倒れない。

首が曲がったまま、虚ろな目で燈子を見つめ返し、即座に腕を振り回してきた。


「なんや!?」


燈子はバックステップで躱すが、その表情に驚愕が走る。


「こいつら、痛覚あらへんのか!?」


「斉藤、気をつけろ! 普通じゃない!」


滝沢も参戦し、別の男の鳩尾へ重いボディブローを叩き込む。

内臓を潰す手応えはあった。しかし、被検体は呻き声ひとつ上げず、機械のように反撃してくる。


恐怖も、痛みも、躊躇いもない。

リミッターを外された暴力の嵐が、数で勝るはずのUNDERLINEを押し始めていた。


その地獄絵図を、少し離れたバンの窓からリョウと蒼が見つめていた。


「くそっ、なんだあの化け物たちは……。燈子さんたちが押されてるぞ」


リョウが焦りを滲ませる。

蒼は窓に張り付き、震える手でガラスを押さえていた。


大人たちが血を流し、殴り合っている。

僕が勝手なことをしなければ、こんなことにはならなかった。


その時だった。


「――グルルァッ!」


闇の奥から、一際大きな影が飛び出した。

ランクA。

筋肉が異常隆起し、血管が黒く浮き上がった巨体が、一直線にバンを目指して疾走してくる。


「しまっ――蒼! 離れろ!」


リョウが叫び、蒼を抱きかかえて反対側のドアへ飛び込む。


直後。


ドォォォンッ!!


まるで鉄球が直撃したような轟音が響いた。

ランクAの放った蹴りが、バンのスライドドアを紙細工のように貫通し、車体を大きく歪ませていた。


もし逃げるのが一瞬遅れていれば、鉄板ごと肉塊になっていただろう。


「ひっ……!」


車外へ転がり出た蒼の喉から、悲鳴が漏れる。


「立て、蒼! 走れ!」


リョウは蒼を背に庇い、構えを取った。

バンを貫いた怪物が、ゆっくりと足を引き抜き、こちらへ向き直る。

その圧力は、これまでの敵とは次元が違っていた。


「リョウさん……ごめんなさい、僕……」


「謝ってる場合か! 俺の背中から離れるなよ!」


リョウが飛びかかってくる怪物の拳を紙一重で受け流す。

だが、その衝撃だけでリョウの体勢が崩れる。


ジリジリと後退する二人。

逃げ場のない路地裏で、圧倒的な暴力が迫る。


蒼は、リョウの背中に守られながら、自分の無力さを噛み締めていた。

『役に立ちたい』『認められたい』。

そんな子供じみた願いが、今、彼らを死地へと追いやっている。


絶望が、蒼の心を黒く塗りつぶそうとしていた。


「くそっ、キリないで……!」


燈子が悪態をつきながら、正面の男の膝関節をローキックで踏み砕く。

ゴシャッ、と嫌な音が響き、男の膝が逆方向に曲がった。


普通なら絶叫してのたうち回る激痛だ。

だが、男は表情一つ変えず、折れた足を引きずりながら、残った片足で跳躍した。


「はあ!? 嘘やろぉ!」


飛びかかってきた男の両腕が、燈子の首を締め上げようと迫る。

燈子は咄嗟に上体を逸らし、男の顎を下から掌底で突き上げた。

脳を揺らす一撃。だが、男の指先が燈子の頬をかすめ、赤い筋を作る。


「脳震盪も効かんのかいな……!」


燈子は舌打ちし、距離を取ろうとするが、すぐに別の“ランクB”二人が左右から挟み撃ちにしてくる。


「斉藤、関節を外しても無駄だ! 完全に破壊して動きを止めるしかない!」


滝沢が叫びながら、襲いかかる男の腕を強引に捻り上げ、肘を脱臼させる。

しかし、その男は脱臼した腕を鞭のように振り回し、滝沢の顔面を殴りつけた。


「ぐっ……!」


滝沢がよろめく。

痛みを感じないということは、肉体の限界を超えた力を常に出し続けられるということだ。

筋肉が断裂しようが、骨が砕けようが、脳からの信号が止まるまで彼らは動く屍と化す。


バンの残骸のそばでは、リョウが死闘を演じていた。


「ハァッ……ハァッ……」


リョウの呼吸が荒い。

額から血が流れている。ランクAの攻撃をガードした際、あまりの衝撃に防御の上から皮膚が裂けたのだ。


目の前の巨漢――ランクAは、人間というよりゴリラや熊に近い。

理性など欠片もなく、ただ「破壊」というプログラムだけが走っている。


「グルァァァァッ!」


ランクAが雄叫びと共に、コンクリートの壁を素手で抉り取り、それをリョウめがけて投げつける。

リョウは背後の蒼を守るため、避けることができない。


「くっ!」


リョウはクロスさせた腕で瓦礫を受け止める。

衝撃が骨に響き、亀裂が入る。


「リョウさん! もういいよ、逃げて!」


蒼が悲鳴のように叫ぶが、リョウは血の混じった唾を吐き捨てて笑った。


「馬鹿言うな。……大人が子供を見捨てて逃げたら、カッコつかねぇだろうが」


リョウは構え直す。だが、その足は微かに震えていた。

ダメージは深刻だ。


その様子をモニター越しに見ていた研究員が、冷淡な声で報告する。


『ランクA、バイタル上昇。ドーパミン分泌量、致死量を超えています』


ビルの屋上で、霧島は満足げに頷いた。


「いいデータだ。だが、もう少し負荷をかけられるな。……フェーズ2へ移行しろ」


『了解。シナプス結合、強制過負荷オーバーロード。出力120%へ』


研究員がキーを叩くと、戦場の空気が一変した。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」


被検体たちが一斉に絶叫する。

彼らの全身の毛細血管が切れ、皮膚が赤黒く変色していく。

筋肉がさらに膨張し、服が弾け飛んだ。


「おいおい、冗談やろ……まだ強なるんかぃ!?」


燈子が目を見開く。

ただでさえ押されていた戦況が、一気に絶望的なものへと変わる。


ランクAの巨体が、蒸気機関車のような突進力でリョウへ迫る。

これまで以上の速度。

反応しきれない――!


「しまっ――」


リョウが防御の体勢を取るよりも早く、丸太のような豪腕がリョウの腹部にめり込んだ。


「ガハッ……!」


リョウの体が「く」の字に折れ、後方の壁まで吹き飛ばされる。

ドサッと崩れ落ちるリョウ。その口から大量の血が吐き出された。


「リョウさん!!」


蒼が駆け寄ろうとするが、ランクAの影が彼の上に落ちる。

怪物は、邪魔なリョウを排除し、次なる標的――小さな蒼へと、その巨大な掌を伸ばした。


「……あ」


蒼は動けなかった。

圧倒的な死の予感に、足がすくみ、声も出ない。


走馬灯のように、冷たい部屋の記憶が蘇る。

リョウのジャケットの温もりも。


巨大な手が、蒼の頭を掴み潰そうとした、その瞬間。


ブツンッ。


◇◇◇


時を遡ること数分


地下三階、電気設備室へと続くメンテナンス通路。

マキは、肺が焼け付くような痛みを感じながら走っていた。


「ハァッ、ハァッ……どっち……?」


足元は悪く、配管から漏れ出た水で滑る。

勢いで飛び出したものの、複雑に入り組んだ地下通路はまるで迷路だった。

頭に叩き込んだはずの設計図が、焦りと恐怖で曖昧になっていく。


迷い立ち止まりかけた、その時だった。


「――右よ、マキちゃん!」


ノイズ混じりの声がインカムからではなく、背後の闇から直接響いた。


「えっ!?」


マキが振り返ると、そこには息を切らした真白が立っていた。

いつもの冷静な姿ではない。手には護身用のスタンガンを握りしめ、額に汗を浮かべている。


「真白さん!? どうして……」


「ナビなしでたどり着けるほど、ここは甘くないわ」


真白はマキの横に並ぶと、タブレット端末を操作しながら先を促した。


走り出した直後、マキの視界に通路脇の“非常用キャビネット”が飛び込んだ。

ガラスの向こうに、赤い柄の斧が見える。


マキは足を止めた。


「どうしたの!?」


「……私には、ハッキングも格闘もできません。だから」


マキは、躊躇なくキャビネットのガラスを叩き割った。

ガシャァン! と鋭い音が響く。

彼女は飛び散る破片を無視して手を突っ込み、重たい消火斧を引き抜いた。


「これなら、私にも使えます」


その手は震えているが、目は据わっている。

真白は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微かに笑って頷いた。


「……頼もしいわね。行くわよ」


二人は通路を駆け抜け、最深部の重厚な扉の前へたどり着いた。

ここがメインハブ――ビルの心臓部だ。


だが、そこは無人ではなかった。


「……あ」


見張りの男が二人。

研究員崩れのような白衣の男と、警棒を持った警備兵だ。

彼らは侵入者を見るなり、無機質な視線を向けた。


「おい、IDは?」


警備兵が低く問う。

マキが息を呑んで後ずさる。


「……持ってないようだな。排除しろ」


嘲笑も、油断もない。

ただ「ゴミを片付ける」だけのような、冷徹な殺意。

警備兵が無言で警棒を振り上げ、白衣の男が懐から拳銃を抜こうとする。


「下がりなさい!」


真白が前に出た。

彼女の表情から、いつもの感情が抜け落ちている。


男が引き金を引こうとするよりも、真白の動きが一歩早かった。


「遅い」


バチィッ!


真白は銃口の射線から紙一重で身を逸らし、男の懐へ飛び込むと同時に脇腹へスタンガンを押し当てた。

強烈な電流が流れ、白衣の男が痙攣して崩れ落ちる。


「なっ……貴様!」


反応が遅れた警備兵が警棒を振り下ろす。

だが、真白はその腕を掴んで関節を決め、流れるような動作で地面に叩きつけた。


「ぐあっ!」


一瞬の早業。

真白は倒れた男からIDカードを抜き取ると、荒い息を吐きながらマキを見た。


「行くわよ、早く!」


ピピッ、と電子ロックが解除され、重い扉が開く。


部屋の中へ飛び込むと、そこには巨大な変圧器と、無数のケーブルが束ねられた配電盤があった。

低い唸り声を上げ、不気味に稼働している。


「どれ!? どれをやればいいんですか!」


マキが斧を構えて叫ぶ。

ケーブルは数十本ある。間違ったものを切れば、ただの照明が消えるだけで終わるかもしれない。


真白がタブレットを高速で操作し、解析する。


「待って……バイパス回路が複雑すぎる……」


真白の額に汗が流れる。

その時、部屋の外から複数の足音が響いてきた。


「こっちだ! 侵入者がいるぞ!」


増援だ。

このままでは袋の鼠になる。


「真白さん!」


「くっ……!」


真白は画面を睨みつけ、決断した。


「マキちゃん、赤よ! 一番太い、赤いマーキングのケーブル!」


「赤……!」


マキは斧を振りかぶった。

目の前には、赤いテープが巻かれた極太のメインケーブル。

霧島の野望を、被検体という悪夢を動かしている動力源。


追っ手の男たちがドアから雪崩れ込んでくる。

「やめろォォッ!!」


怒号と銃口がマキに向けられた、その刹那。


マキの瞳に、強い光が宿る。

彼女は全身全霊の力を込め、斧を振り下ろした。


「うあああああああっ!!」


バヂィィィッ!!


激しいスパークが弾け、青白い閃光が地下室を灼く。

衝撃でマキと真白の体が吹き飛ばされる。


だが、その轟音と共に、変圧器の唸り声は、断末魔のように途絶えた。


◇◇◇


路地裏を照らしていた街灯も、ビルの窓明かりも、すべてが一瞬にして闇に呑み込まれた。

残されたのは、月明かりすらない重苦しい静寂だけ。


「……あ」


蒼は、死を覚悟して固く閉じていた瞼を、恐る恐る開いた。


岩のような拳が止まっている。

ランクAの巨体は、振りかぶった姿勢のまま凍りついていた。

いや、止まっているだけではない。全身が痙攣し、口から泡を吹いて白目を剥いている。


周囲を見渡せば、燈子や滝沢を追い詰めていた他の被検体たちも同様だ。

糸が切れた操り人形のように崩れ落ち、あるいはその場で硬直している。


『な……何事だ!? 制御不能だと!?』

『システムダウン! バイタルモニタ、応答しません!』


闇の向こう、研究員たちの狼狽する声が微かに聞こえた。


「……ハッ、傑作やのぉ」


静寂を破ったのは、燈子の笑い声だった。

彼女は目の前で立ち尽くす被検体の脛を軽く蹴り、反応がないことを確認すると、獰猛な笑みを浮かべた。


「霧島ァ! あんさんの自慢のおもちゃ、電池切れやないかい!」


その叫びが、反撃の合図だった。


「やるぞ! 敵が混乱している今がチャンスだ!」


滝沢が動かなくなった被検体を薙ぎ倒し、前へ躍り出る。

制御を失った強化人間は、ただの肉の塊だ。実戦経験を持つUNDERLINEにとって、この闇は最強の味方となる。


「ちっ……撤退だ。これ以上のデータ収集は無意味だ」


ビルの屋上から、霧島の冷徹な声が聞こえたかと思うと、すぐに気配が消えた。

彼らは引き際も早い。勝ち目がないと悟るや否や、蜘蛛の子を散らすように闇へと消えていく。


「待て!」


滝沢が追おうとするが、それをリョウの声が止めた。


「ぐっ……滝沢、深追いはよせ……!」


「リョウ!」


リョウは壁に背を預け、ずるずると座り込んでいた。

口元から血が流れている。ランクAの一撃をまともに受けたダメージは深い。


「……家族を迎えに行かなきゃならねぇだろ……?」


リョウの視線は、ビルの通用口に向けられていた。


◇◇◇


「うあああああああっ!!」


バヂィィィッ!!


激しいスパークが弾け、青白い閃光が地下室を灼く。

それはまるで雷撃のようだった。

狭い室内で炸裂した光と衝撃波は、マキと真白だけでなく、入り口に殺到していた増援の男たちをも吹き飛ばした。


直後、完全な闇と静寂が訪れる。


「ごホッ、ゴホッ……!」


焦げ臭いオゾンの匂いと、燻る煙が充満している。

マキは床に叩きつけられた衝撃で痺れる体を起こそうとした。


「……ま、真白さん……?」


「生きてるわよ。……それより、立って!」


闇の中から真白の鋭い声が響く。

彼女の手がマキの腕を掴み、強引に立たせた。


入り口の方からは、男たちのうめき声と怒号が聞こえてくる。


「あ、目が……! 目が焼けたァ!」

「火事だ! 消火器を持ってこい!」

「くそっ、何も見えねぇ!」


至近距離で特大のアーク放電(閃光)を浴びた男たちは、一時的な失明状態に陥り、パニックを起こしていた。

さらに換気扇も止まったことで、煙が充満し始めている。


「チャンスよ。彼らが混乱しているうちに抜けるわよ」


真白はタブレットのバックライトだけを点灯させ、最低限の光源を確保する。


「でも、入り口には……」


「どきなさいッ!」


真白はマキを庇いながら、入り口でよろめいている男の横をすり抜ける――その瞬間、一人の男が光に反応して腕を伸ばしてきた。


「そこにいるのか!」


「邪魔よ!」


バチィッ!


真白は男の腕を払いのけ、喉元へ容赦なくスタンガンを突き入れた。

男は悲鳴も上げられずに泡を吹いて崩れ落ち、後続の男たちの足を塞ぐ障害物となった。


「ひぃっ……!」

「おい、どうした!?」


暗闇と煙、そして味方が無音で倒れた恐怖。

烏合の衆である敵は、完全に統率を失い、同士討ち寸前の混乱に陥っていた。


「行くわよ、走って!」


「は、はい!」


真白に手を引かれ、マキは煤だらけの顔で走り出した。

背後で響く怒号は、すぐに遠ざかっていった。


非常灯すらつかない、完全な闇の迷路。

だが、真白のナビゲートと、マキの「蒼のところへ帰る」という執念が、二人を出口へと導いていった。


数分後。

非常灯の薄暗い赤色が点滅する中、ビルの通用口から二つの影が現れた。


ススと油で顔を真っ黒にし、髪を焦がしたマキ。

そして、彼女の肩を支えるように歩く真白だ。


「マキ!」


滝沢が駆け寄る。

マキは膝が笑っているのか、立っているのもやっとの状態だったが、その手にはまだ、煤けた斧が握りしめられていた。


「……やった。やったよ、私……」


マキは震える声で呟き、へなへなとその場に座り込んだ。

緊張の糸が切れたのだ。


その視線の先に、小さな影があった。

蒼だ。


蒼は、ふらふらとマキの方へ歩み寄った。

姉の顔は汚れていた。服もボロボロだった。

見たことがない必死で、なりふり構わない姿。

その全てが、自分を助けるための代償だと、痛いほどに分かってしまった。


「なんで……」


蒼の唇から、言葉が漏れる。


「なんで、ここまで……僕は、ただの……」


マキは顔を上げ、涙で滲む目で蒼を見た。

そして、斧を手放すと、泥だらけの腕を広げて蒼を抱きしめた。


「バカ! バカ、蒼! ……いなくならないでよぉッ!」


温かい。

血の通った、どうしようもないほどの熱が、そこにあった。


「迷惑とか、そんなのどうでもいい! あんたが生きてなきゃ、意味がないのよ!」


姉の叫びが、蒼の冷え切った論理を粉々に砕いていく。

『持っている人から奪う』でも、『自分の価値の証明』でもない。

ただそこにいるだけで、命懸けで守ろうとしてくれる人がいる。


蒼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

十一歳の子供の顔に戻り、彼はマキの背中に小さな腕を回した。


「……ごめん。……ごめんなさい、おねえちゃん」


初めて呼んだその名は、路地裏の湿った空気の中に、優しく溶けていった。


滝沢とリョウ、そして真白と燈子は、その光景を少し離れて見守っていた。


「……今回は、肝心のデータは手に入らなかったな」


滝沢は苦笑し、抱き合う姉弟に背を向け、周囲の警戒に立った。

任務としては失敗かもしれない。

だが、もっと重要なもの――失われていた「絆」は、確かに回収されたのだ。


空が白み始めていた。

ビルの隙間から差し込む朝陽が、傷だらけの彼らを照らし出す。


「帰ろうか。俺たちの家へ」


滝沢の言葉に、マキと蒼は涙を拭いて頷いた。

歪で、傷だらけで、けれど確かな「家族」が、そこにはあった。


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