第8話 祈りと深淵の狭間
滝沢の怒声が壁に吸い込まれ、静寂に包まれた。張り詰めた空気の中、真白がキーボードを叩く音だけが、硬質な雨音のように響いている。彼女の指先が紡ぎ出すのは、絶望的な状況を打開するための、細く、しかし確かな一本の糸だった。
「蒼くんの現在地を特定。ポイントD-4、市街の路地裏よ」
「了解。……すぐそこだ」
真白の声に呼応し、滝沢がインカムへ鋭く命じる。
「斎藤は車両を回せ。俺が出る。霧島の拠点はこの半径二キロ圏内だ。モタモタしていれば、こっちの動きが気付かれる可能性がある」
その時、ドアが乱暴に開け放たれた。涙で顔を濡らしたマキだった。彼女は装備を整えようとする滝沢の腕に、溺れる者が藁を掴むようにしがみついた。
「お願い……私も連れて行って! あの子を止めるのは、私の……!」
「馬鹿を言うな!」
滝沢は、彼女の肩を掴んで引き剥がす。その声は厳しかったが、瞳の奥にはマキを案じる色が滲んでいた。
「お前が行って何になる? 足手まといなだけだ。……いいか、よく聞け。戦うだけが役目じゃない。無事を祈り、帰りを待つ。それも立派な務めだ。お前は、蒼が安心して帰ってこられる“陽だまり”でいろ」
それは、残酷なまでの正論だった。マキは崩れ落ちそうになる膝を叱咤し、唇を血が滲むほど強く噛み締める。無力感に押しつぶされそうになる自分。だが、その言葉が逆に彼女の思考を冷やした。――ただ安心を与えるだけの存在になりたいのか?いや、わたしは蒼と一緒に歩みたい。
マキは涙を拭うと、無言でコンソールへ向かった。彼女が表示させたのは、都市の地下メンテナンス通路の設計図だった。弟の思考、行動パターン、そして彼が抱える歪んだ献身、姉だからこそ予測できる「最短ルート」。
「……見つけた」
マキの呟きに、真白が振り返る。
「霧島との接触予想地点じゃない。あの子が、誰にも見つからずにそこへ向かおうとするなら……必ずここを通る」
それは地下水路を経由するメンテナンスルートだった。真白は一瞬目を見開いたが、すぐに微かに頷いた。
「滝沢さんには、私が伝えておくわ。……行きなさい。あなたのやり方で」
◇◇◇
路地裏の湿った空気は、鉄錆と残飯の匂いが混じり合って鼻をつく。
蒼は、自分の行く手を遮るように立つ男を見上げ、足を止めていた。リョウは深く紫煙を吐き出し、吸殻を足元で踏み消す。
「……どいてよ。リョウさん」
「どいて、どうする? 霧島に会って『データください』って頭でも下げるのか?」
リョウの軽口にも、蒼は表情一つ変えない。十一歳の少年が浮かべるにはあまりに悲痛な覚悟。それは硝子細工のように脆く、危うい光を放っていた。
「……あなたには、関係ない」
「関係なくねぇんだよ。お前はもう、俺の“身内”なんだからな」
その言葉が、蒼の心の壁をわずかに穿った。少年は驚いたように顔を上げる。
「足手まといになるのは嫌なんだ! 真白さんの役に立ちたい。……マキ姉も、僕のせいでUNDERLINEにいる。僕が生まれてこなければ、だから霧島のデータが必要なんだよ!」
それは贖罪の叫びだった。リョウは一歩踏み出し、少年の細い肩を掴む。
「真白や姉貴が、そんなものを望むと思うか? お前が傷ついて、泥まみれになって、……あいつらが笑えると思うか?」
リョウは視線を合わせ、諭すように、だが力強く告げる。
「馬鹿野郎。お前が守るべきなのは、お前自身の未来だ。お前が笑って生きていくことこそが、二人にとって唯一の“幸せ”なんだよ」
その言葉は、蒼が築き上げた覚悟の城壁に、決定的な亀裂を入れた。
その時、路地の入口にバンのヘッドライトが差し込み、滝沢たちが到着する。
「乗れ! 長話は帰ってからだ!」
滝沢の声に、リョウは蒼の背中を押してバンへと押し込む。だが、事態は彼らの想定通りには運ばなかった。
車内の通信機器が一斉にハウリングを起こし、計器類が意味不明な点滅を繰り返す。街灯が明滅し、あたりの影が不気味に揺らめいた。
「……ジャミングか」
滝沢が舌打ちし窓の外、ビルの屋上に一つの人影が立っていた。夜風にコートをはためかせ、眼下の混乱を楽しむように見下ろしている。
霧島隼人。
スピーカーを通さず、ハッキングされた車内の回線から直接、その声が響いた。ノイズ混じりの、だが氷のように冷徹な声。
「――ようこそ、UNDERLINE諸君。素晴らしい夜だとは思わないかね? 月は隠れ、旧い神々が眠る街で、新しい取引を始めよう」
霧島は決して万能ではない。だが、このエリア一帯の通信網と電力網に細工を施し、獲物がかかるのを待っていたのだ。その手際こそが、彼が犯罪者である証明だった。
「リョウ、蒼を確保したまま伏せてろ!迎撃準備!」
◇◇◇
一方、地上の喧騒から隔絶された地下通路。
マキは息を切らしながら走っていた。湿った冷気が喉を焼く。彼女の目の前には、封鎖された重厚な防水隔壁が立ちはだかっていた。
彼女に、一瞬でロックを解除するような技術はない。あるのは工具と、必死の覚悟だけだ。
震える手でメンテナンスパネルをこじ開ける。錆びついた配線の束を引きずり出し、バイパス回路を物理的に繋ぎ変える。火花が散り、指先を焦がすが、構ってはいられない。
(お願い、動いて……!)
神への祈りではなく、システムへ。
やがて、軋むような金属音と共にロックランプが赤から緑へと変わる。巨大な扉が、重い腰を上げるようにゆっくりと開き始めた。
その先は、蒼がいる場所へ、そして霧島がいる場所へと繋がっている。
マキはもう、「守られるだけの存在」ではなかった。愛する者を呑み込もうとする闇があるなら、自らが嵐の中に飛び込んででも、その手を掴みに行く。
彼女は工具を握り直し、開いた隙間から闇の奥へと駆け出した。姉弟の運命が、今、最大の分岐点を迎えようとしていた。




