第7話 深夜の警鐘
都心にそびえるガラス張りのオフィスビル。
表向きは急成長中のベンチャー企業として名を馳せるその建物の内部に、地下組織“UNDERLINE”の拠点はあった。
マキと蒼がここへ身を寄せてから、数日が過ぎようとしていた。
「……はぁ」
廊下の角を曲がったところで、真白と滝沢がばったりと出くわす。二人は顔を見合わせると、示し合わせたように同時にため息をついた。
「奇遇だな、真白。お前もか」
「ええ……なかなか、上手くいかないものね」
二人が抱えている悩みは同じだった。マキと蒼、姉弟のことだ。
家族として向き合う時間を設けても、二人の間の溝は埋まらない。まるで見えない壁があるかのように、互いに反発し合っている。
十一歳の蒼は真白にだけ心を許し、彼女のあとをついて回るほど懐いていた。
対して姉のマキは、思春期特有の背伸びなのか、あるいは吊り橋効果めいた幻想か、滝沢のもとに入り浸り、彼のそばに居場所を求めている。
「マキは蒼のことを“蒼”って呼ぶけど……蒼の方は頑なだな」
蒼は姉と会話をする際、決して“おねえちゃん”とは呼ばない。
“あれ” “これ”といった指示代名詞で誤魔化し、巧みに姉の名前を避けている。挨拶こそ交わすが、そこには他人行儀な距離があった。
「十一歳にしては達観しすぎているというか……可愛げがないというか。根深いわね」
血が通った会話はない。
非日常である組織の中で、もっとも日常的な“姉弟”という関係だけが冷たく凍り付いていた。
◇◇◇
そんな停滞した空気を切り裂くように、裏ルートからきな臭い情報が回ってきた。
表向きは難病治療の臨床試験。しかし実態は、脳のリミッターを強制的に外し、恐怖も痛みも感じない“人間兵器”を作るための人体実験だった。
UNDERLINEへの今回の依頼は、その非人道的プロジェクトのデータ奪取と組織の壊滅。
作戦室では滝沢と斎藤が険しい表情でモニターを覗き込んでいた。
「ターゲットは霧島隼人や。この実験の主導者で、全データを握っとる重要人物やな」
「ああ。脳を弄って兵隊を作るなんて狂気の沙汰だ。早急にデータを回収する」
その会話を、ドアの隙間から誰かが無表情で聞いていた。蒼だ。
十一歳とは思えない冷静な瞳で、大人たちの会話を咀嚼していく。
蒼の思考は子供特有の無鉄砲さとは違う。もっと合理的で、どこか歪んだ献身だった。
マキには冷たく接してしまう自分だが、ただ守られるだけの子供でいたくない。
真白には認められたい。
ならば、この“霧島”という男からデータを奪えばいい。
蒼はそう結論を下すと、音もなくその場を立ち去った。
◇◇◇
夜が更け、ビルの明かりが落ちた頃。
滝沢の部屋のドアが、ノックもなく乱暴に開かれた。
「滝沢さん!」
「どうしたマキ、血相を変えて」
「あの子が……蒼がいないんです!」
普段は少し大人びて振る舞う十六歳の少女が、今は顔面蒼白で震えている。
「部屋にもいないし、トイレにも……どこにも!」
「何だと?」
姉としての本能的な恐怖が、彼女の仮面を剥がしていた。
滝沢はすぐにスマホを取り出し、真白へ連絡する。
「真白、そっちに蒼はいるか?」
『蒼くん? いいえ、もう休んでいる時間よ。……まさか』
「ああ。マキが探し回ったが見当たらないそうだ」
真白の声が硬くなる。
蒼の性格上、ただの夜遊びや癇癪などあり得ない。
滝沢はマキを安心させるように頷いて見せたが、嫌な予感はどうしても拭えなかった。
◇◇◇
その頃、蒼は夜の繁華街を一人歩いていた。
酔っ払いの怒号、客引きの甘ったるい声、ギラつくネオン。
大人たちの欲望が渦巻く混沌の街。すれ違う視線はどれも冷たい。
蒼はポケットに手を突っ込み、淡々と周囲を観察しながら目的地へ向かう。
路地裏へ足を踏み入れた瞬間だった。
「おおー、随分とちっこい迷子だな」
低い声がかかり、蒼はゆっくりと足を止める。
振り返ると、街灯の下でタバコの煙をくゆらせながら立つ見知った顔――リョウだった。
「……リョウさん」
「こんな時間に何してんだ? 小学生がうろつく場所じゃねぇだろ」
からかうような口調だが、目は笑っていない。
蒼は視線を逸らし、平坦な声で嘘を吐く。
「……頼まれごとです。ちょっと買い出しに」
「コンビニならビルの向かいにあるだろ。ここは繁華街の裏だ」
リョウはため息をつき、懐からスマホを取り出した。
嘘だ、と目が語っている。
「……真白か? ああ、俺だ。リョウだ」
蒼の眉がわずかに動く。
「探してた蒼ならここにいる。……ああ、どうも様子がおかしい。ただの迷子じゃなさそうだぞ」
リョウは蒼が隠し持っていたメモ――“霧島”の文字を見た瞬間、目を細めた。
その報告はすぐに真白を経由して滝沢へ伝わる。
ただの失踪ではない。
蒼の狙いが“ターゲット”に向いていたことで、事態は急変した。
UNDERLINE全体を巻き込む騒動の幕開け――。
「馬鹿野郎が……!」
連絡を受けた滝沢の怒号が、深夜のオフィスに響いた。
それは蒼への怒りというより、子供にそんな行動を取らせてしまった自分たち大人への憤りだった。




