第6話 砕け散る硝子の鳥籠
ホームから人が減り、駅は無機質なコンクリートの塊へと戻った。
真白は深く息を吐き、ようやく自分を少しだけ取り戻す。――魔法は解けたのだ。
少年は消えた。煙のようにではなく、雑踏に紛れて視界から消えただけだ。あとに残ったのは、手のひらに残る微かな温もりと、置き去りにされた重たい問いかけだけ。
真白は駅の階段を降り、改札を出た。スマートフォンを取り出し、燈子へ短いメッセージを送る。
“しばらく、調べたいことがある”
送信ボタンを押し、すぐに通話ボタンをタップして別の相手を呼び出した。数回のコールの後、低いリョウの声が応答する。
真白は手短に、しかし真剣に彼へ協力を仰いだ。
数時間後。
リョウの調査能力は、残酷なほど正確だった。
喫茶店の片隅で、タブレット端末に映し出された資料を見せられ、真白は息を呑んだ。
「三上 蒼」。十一歳。五年前の震災で実の両親を亡くした後、施設を経て、ある老夫婦に養子として引き取られている」
「だが、その養父母である老夫婦も相次いで病死している。その後、遺産相続を主張する親族たちが押し寄せ、家財や権利書を持ち去ったようだ。少年はライフラインの止まった家で、たった一人、置き去りにされている」
リョウは淡々と事実を告げるがその目の奥に、わずかに痛みの影が走っていた。画面をスワイプし、そこに記されていたのは、あまりにも救いのない経歴だった。
「……そんな」
真白は言葉を失った。あの言葉の意味。それは比喩ではなく、文字通り空っぽにされた家のことだったのだ。
「問題はここからだ」
リョウの声が一段低くなった。
「彼の旧姓は“一条”。気になって燈子さんに確認を取ったところ、点と線が繋がった」
画面に表示されたのは、UNDERLINEで保護し、今は仲間の女の子――マキの顔写真だった。
「マキの本名は、一条 真希」。彼女がずっと探していた生き別れの弟……それが、三上蒼だ」
真白の中で、単なる「非行少年への同情」が、明確な「使命」へと変わった瞬間だった。
数日後、街は冷たい雨に包まれていた。
アスファルトを叩く雨音が、街の喧騒を灰色に塗りつぶしていく午後。
真白とリョウは、駅周辺の繁華街で蒼の姿を探していた。姉であるマキにはまだ伝えていない。不確定な状態で彼女をぬか喜びさせたくないし、何より、今の荒んだ蒼の状態をそのまま見せるわけにはいかなかったからだ。
「いた」
リョウが短く告げ、顎で先を示した。
雑居ビルの軒下。傘の花が開く往来を見つめる、小さな影があった。
蒼だ。
彼は、獲物を狙う猫のように身を潜めていた。ターゲットは、傘を閉じようともたついている中年のサラリーマン。男が濡れた傘に気を取られ、脇に抱えた鞄が無防備になった一瞬。
蒼が動いた。
水たまりを蹴る音さえさせず、すれ違いざま、流れるような手つきで鞄の隙間に手を差し込む。抜き取られたのは長財布。
その手際は、以前見た時よりもさらに洗練され、悲しいほど「仕事」として完成されていた。
「蒼くん!」
真白が叫ぶと、蒼は弾かれたように振り返った。
リョウが回り込もうとしたが、蒼は小柄な体躯を生かして人波を縫うように逃げる。真白は必死に追いかけ、路地裏の角で彼を呼び止めた。
「来ないで!」
蒼が叫んだ。その声には、以前のような静けさはなく、追い詰められた獣の警戒心があった。
「そんなことをしては駄目。家に帰りなさい!」
真白の言葉に、蒼の顔が歪んだ。嘲笑に近い、乾いた表情だった。
「家? あんな場所、帰ってどうするの?」
「でも、このままじゃ……」
「大人はみんな嘘つきだ。あなたも、あいつらと同じなんでしょ? 僕から何か奪いに来たの?」
「違う、私はあなたを助けたいだけ」
「助ける? いまさら?」
蒼は鼻を鳴らした。その瞳は、かつて彼から全てを奪っていった親族たちを見る目と同じ、底知れない不信感に満ちていた。
「会いたければ、“空が二つになるところ”に来れば良いよ」
「え……?」
「雨上がりの、ビルの上。水たまりがたくさんできるところ。空が二つになるところだよ」
それだけ言い残すと、蒼は錆びたフェンスをくぐり抜け、薄暗い路地の奥へと姿を消した。
「空が二つになるところ……詩的だな」
逃げられた現場で、リョウが溜息交じりに呟いた。だが、真白は首を横に振った。
「いいえ、あの子はリアリストよ。生きるために必死な子が、詩なんて口にしない。これは、もっと具体的な場所を指しているはず」
真白は駅前の風景を思い浮かべた。
“雨上がりの、ビルの上”
“水たまりがたくさんできるところ”
「空が二つになる……つまり、水面に空が映る場所」
都会のビル群。屋上。水はけが悪く、雨水が溜まりやすい場所。そして、十一歳の子供が大人の目を盗んで入り込める、管理の杜撰な建物。
「あそこだわ」
二人はそのビルへと向かった。
真白の視線の先には、再開発から取り残された一角があった。一階のテナントが撤退し、シャッターが半分降りたままの古い雑居ビル。外壁には蔦が絡まり、非常階段の塗装は赤錆で浮いている。
ライフラインの止まった家よりも、今の彼にとっては、あそこの方がよほど「家」に近いのかもしれない。
真白はビルの下で足を止めた。
「リョウ、あなたはここで待っていて」
「一人で行くのか?」
「二人で囲めば、彼はまた逃げるわ。それに、あの子は大人を、特に“男の大人”を怖がっているかもしれない」
親族の男たちに罵倒された記憶があるなら、リョウの姿は威圧的に映るだろう。
「わかった。何かあったらすぐに呼べ」
真白は一人、慎重に非常階段を登り始めた。
三階、四階、五階。
錆びついた鉄の階段が、一段踏むごとに悲鳴のような音を立てる。息が切れ、ふくらはぎが痛む。それでも、彼女は足を止めなかった。
屋上の鉄扉は、鍵が壊れて少しだけ開いていた。
重い扉を押し開けると、湿った風が顔を撫でた。
そこは、ただの薄汚れたコンクリートの広場だった。
排水溝が詰まっているのか、あちこちに大きな水たまりができている。分厚い雨雲が去った後の灰色の空が、その濁った水面に映り込んでいた。
「空が二つになるところ」
そこに、幻想的な美しさはなかった。あるのは、泥水と、都会の澱んだ空気だけ。
そして、その水たまりの淵に、小さな背中があった。
給水塔の陰に、蒼が座り込んでいた。
「……やっぱり、ここにいたのね」
彼女が声をかけると、蒼は驚く様子もなく、ゆっくりと振り返った。その顔には、疲労の色が濃く滲んでいる。ただの、疲れ切った子供の顔だった。
「早かったね」
真白は近づき、彼の手元を見下ろした。
コンクリートの上には、先ほど盗んだ財布から抜かれた免許証やカードが無造作に散らばっていた。そして、彼の手には食べかけのコンビニのおにぎりのフィルム。
盗んだ金で、既に空腹を満たした後だった。
「その財布、どうするつもり?」
「中身はもらったよ。これ(革財布)は、いらないから捨てる。重いし」
「お金だけじゃないわ。そのカードも、免許証も、持ち主にとっては大切なものよ」
「ぼくには関係ない」
蒼は冷淡に言い放ち、立ち上がった。パーカーの袖口が擦り切れ、手首に古いあざが見える。生活の中でついた傷か、それとも誰かに付けられたものか。
「警察には行かないわ」
真白は覚悟を決めて言った。
「でも、その財布は、私が持ち主に返す。ポストに入れるか、交番に届けるかする」
蒼は不思議そうに首を傾げた。
「どうして? あなたが盗んだんじゃないのに」
「私が目撃したからよ。見過ごしたら、私もあなたと同じになる」
真白は屈み込み、濡れたコンクリートに散らばったカード類を拾い集め始めた。雨水で汚れた革財布を拭い、元の通りに戻していく。
蒼はその様子を、まるで理解不能な儀式でも見るような目で見下ろしていた。
全ての物を財布に戻し終えた時、真白は顔を上げ、蒼を真っ直ぐに見据えた。
「蒼くん。さっき、家に帰りたくないと言ったわね」
「うん」
「あそこには、もう誰もいないから?」
蒼の視線がふと泳いだ。図星を突かれた動揺が走る。
彼は視線を足元の水たまりに落とし、つま先で水面を蹴った。濁った水が跳ね、映り込んでいた空がぐしゃぐしゃに歪んだ。
「……全部、持って行かれたんだ」
小さな声が、風に混じった。
「おじいちゃんもおばあちゃんも死んで、知らない大人たちが来て、全部持って行った。あそこはもう家じゃない。ただの箱だよ」
淡々としたその言葉は、どんな叫びよりも重く響いた。
真白は胸が締め付けられる思いだった。リョウの報告にあった通りだ。彼は両親を震災で失い、ようやく見つけた安らぎの場所さえも、身勝手な大人たちに奪い尽くされたのだ。
彼が「持っている人から奪う」という論理に行き着いたのは、彼自身が「持っている人たち」に全てを奪われた被害者だったからだ。
真白は立ち上がり、汚れた手をボトムスで拭った。
そして、彼に告げた。
「もし、あなたを絶対に捨てない人が、まだいるとしたら?」
蒼が顔を上げる。その瞳には諦めの色が濃かった。
「いないよ。みんな死んだ。僕の周りの人は、みんな死んでいなくなるんだ」
「生きているわ」
真白は断言した。
「五年前の震災……あなたには、お姉さんがいたわよね?」
蒼の目が大きく見開かれた。時が止まったかのように、彼は身じろぎもせず真白を見つめた。
「彼女の名前は、一条真希。今は“マキ”と呼ばれてる。私たちの仲間よ」
「……おねえ、ちゃん?」
「ええ。彼女はずっと、あなたを探していた。――――ずっと」
蒼の唇が震えた。完璧だった彼の「孤独の論理」の壁に、亀裂が入っていく。誰も僕を守らない、誰も僕を知らないという前提が、音を立てて崩れ落ちる。
「うそだ……」
「嘘じゃない。私と一緒に来て。彼女に会わせる」
真白は右手を差し出した。
「大人は、信用できない?」
蒼は、差し出された手と、彼女の顔を交互に見た。その瞳の奥にある警戒心が、涙の膜で揺らいでいた。親族たちに向けられた冷たい目とは違う、縋るような光。
「そうね。私も、自分が信用できないわ。でも、このままあなたを見捨てる自分よりは、マシだと思うことにしたの」
自嘲気味に笑うと、蒼は少しだけ驚いたような顔をした。
そして、長い沈黙の後。
ためらいがちに、汚れた小さな手を真白の手のひらに重ねた。
その手は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。真白はその手を強く握り返した。二度と、理不尽な世界に奪われないように。
「行こう」
二人は背を向け、水たまりのある屋上を後にした。
濁った水面には、再び灰色の空が戻っていたが、そこにはもう孤独な影はなく、寄り添う二つの影が長く伸びていた。
錆びついた階段を降りると、リョウが待っていた。
彼は二人を見て、状況を察したのだろう。何も聞かずに自分のジャケットを脱ぎ、蒼の小さな肩にふわりとかけた。
蒼は驚いてリョウを見上げた。
「俺は親戚の連中とは違う。安心しろ」、言うとリョウは不器用に視線を逸らした。ジャケットに残る大人の体温に包まれると、蒼は小さく息を吐き、大人しくそれに包まった。
雨雲の切れ間から、薄い光が差し込み始めていた。
真白は蒼の手を引いたまま、歩き出す。
「空っぽの箱」ではない、本当の家族が待つ場所へと。




