第5話 無垢な略奪 ――なぜ、それを盗むのか――
電車の揺れが、心地よい眠りを誘う午後のことだった。
少年、三上蒼の手つきは、まるで手品のように鮮やかだった。
隣に立つ背広姿の男性。その尻ポケットから、少年は黒い革財布を抜き取った。ためらいは一切ない。まるで自分のポケットからハンカチを取り出すかのような、あまりにも自然な所作。そこに罪の意識など微塵もなく、あるのは無垢な略奪だけだった。
しかし、その軽やかな犯行を、一人の女性が目撃していた。
彼女は息を呑み、その場を去ろうとする少年の前に立ちはだかった。
「……あなた、今、何をしたかわかっているの?」
咎める声は震えていた。だが少年は、盗んだばかりの財布を眺めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
静かだった。非難を投げつけられても、彼の瞳には底知れない静けさがあった。そこには、悪意も、反抗も、恐怖さえもなかった。ただ、純粋な「なぜ?」という光が揺らめいているだけだった。
「これのこと? あの人、持ってた。ぼくは、持ってなかった。だから、もらった」
少年は、世界の真理を語るように言った。
彼の論理は、あまりにも単純で、そして完璧だった。空っぽの器があれば、満たされている器から注がれる。それは、彼にとって水が高きから低きへ流れるような、自然の摂理そのものなのだ。
女性は、自分がこれまで疑いもしなかった「正しさ」という壁が、目の前で砂のように崩れていくのを感じた。この子の前では、法律も、道徳も、大人たちが築き上げた常識のすべてが、意味をなさない戯言に過ぎないのかもしれない。
電車が減速し始め、窓の外の景色が滲んで流れ出す。
彼女は、衝動的に少年の細い腕を掴んだ。
この手を警察に引き渡すことは、正しいことなのだろうか?
「お金がないなら、働けばいいのよ。盗むのは、いけないことなの」
彼女がようやく紡ぎ出した言葉は、空虚に響いた。
少年は、不思議そうに首を傾げた。まるで初めて聞く外国語を理解しようとするかのように、彼女の顔をじっと見つめている。
「どうして? 持ってる人が、持ってない人にあげる。それじゃ、だめなの?」
その問いは、刃のように鋭く、彼女の心を貫いた。富める者が、持たざる者に分け与える。それは、物語の中では美徳として語られているではないか。
「はたらく?」
少年は、呟いた。その声には、棘もなければ、皮肉もない。ただ、未知なるものへの純粋な好奇心だけが響いた。
「大人がやってる、あれのこと? 朝、どこかへ行って、夜、疲れた顔で帰ってくる。あれをすれば、これが手に入るの?」
真っ直ぐな視線が、彼女の心をやすやすと貫く。
「でも、ぼくは十一だよ。まだ、大人じゃない。大人のやることを、どうやってやるの? 大人の大きさの服を、小さいぼくが着られないのと同じだよ」
女性は言葉を失った。
保護されるべき年齢。社会は、彼らを守るために法を作り、同時に、彼らが自力で生きる術を奪っている。そして、その矛盾の狭間に落ちてしまった子供に、自分は「働け」と平然と言ったのだ。
プシュー、と音がしてドアが開く。警告音がけたたましく鳴り響き、乗客たちの雑踏が二人を別々の方向へと押し流そうとした。
ほとんど反射だった。女性は少年の体を強く引き寄せ、人波をかき分けるようにしてホームへと転がり出た。
背後でドアが閉まり、彼女が乗るはずだった車両は静かに遠ざかっていく。
「どうして、降りたの?」
少年が問いかけた。
「……わからない」彼女は正直に答えた。「あなたを、どうすればいいのか、わからないの」
少年は彼女の混乱を意にも介さず、興味深そうにホームの喧騒を見渡した。
彼の瞳は、あらゆるものを等価な情報として映し出す鏡のようだった。
やがて、彼の指が一本の線を宙に描いた。その先にあるのは、ガラスケースの中で湯気を立てる肉まんだった。
「あれは、あたたかい?」
「ええ……ええ、そうよ」
「あの人は、持ってる。たくさん。でも、あの子は見てるだけ。お腹が鳴ってる。聞こえるよ」
少年の視線は、売店の前で母親の服の裾を握りしめ、羨望の眼差しで肉まんを見つめる幼い少女に注がれていた。
女性は、息を呑んだ。自分はこの少年を裁こうとしていた。しかし、彼が見ている世界は、自分が見てこなかったものではないのか。
「……お腹、すいているの?」
彼女は、ようやく尋ねた。
少年は答えなかった。ただ、こくりと一度、小さく頷いた。
女性の中で何かが決壊した。今、彼女の目の前に在るのは、ただ一人の、空腹な子供という絶対的な事実だけだった。
「行きましょう」
彼女は、少年の手を握り直した。
売店で肉まんを二つ買い、一つを少年に差し出す。
彼はごく自然に受け取った。感謝の言葉も、喜びの表情もない。ただ、白い生地をゆっくりと食む。その温もりが冷えた体に染み渡ると、少年はふと顔を上げた。
「じゃあ、ぼくは家に帰る」
あまりにあっさりとした別れの言葉に、女性は慌てて引き留めた。
「待って。私の名前は、真白 結月。あなたの名前を、教えてくれる?」
少年はしばし黙考したのち、静かに唇を開いた。
「蒼」
青。あるいは、蒼。空の色か、海の深さか。その名は、彼の瞳の静けさによく似合っていた。
「蒼くん……また、会える? どこへ行けば、あなたに会えるの?」
蒼は、指先でホームの天井を指した。
「雨上がりの、ビルの上。水たまりがたくさんできるところ。空が二つになるところだよ」
詩のような言葉を残し、蒼は彼女の手をそっと振り払った。
そして、踵を返す。彼は人波に逆らわず、流れの一部になるかのように雑踏の中へと溶け込んでいった。
◇◇◇
駅から少し離れた住宅街。古びた日本家屋の前に立ち、蒼はポケットを探った。鍵はない。いつものように、建て付けの悪い勝手口を少し強引に開ける。
「ただいま」
誰もいない暗闇に向かって、蒼は呟いた。返事はない。この家に返事がなくなってから、もう随分と経つ。
家の中は、ひどく静かだった。
電気のスイッチを入れても、明かりはつかない。蛇口を捻っても、水は出ない。ライフラインはとっくの昔に止まっていた。
蒼は、薄暗い居間の畳に座り込み、女性からもらった肉まんの残りを口に運んだ。冷めかけていたが、まだ十分に美味しかった。
五年前の、あの日のことを思い出す。
六歳の蒼が見たのは、ぐにゃりと歪む地面と、崩れ落ちる建物だった。震災。その圧倒的な暴力の前では、人間が作ったルールなど何の意味も持たなかった。両親は瓦礫の下で動かなくなり、蒼の世界から「守ってくれる大人」が消えた。
その後、施設を経て、この家の老夫婦に引き取られた。
優しい人たちだった。温かい食事があり、清潔な布団があった。ここでなら、また「日常」を取り戻せるかもしれない。幼い蒼はそう思い始めていた。
けれど、平穏は長くは続かなかった。
老夫婦は相次いで重い病に倒れた。家の空気は、優しい香りから、鼻をつく消毒液と湿布の匂いへと変わっていった。蒼は小さな手で水を運び、背中をさすったが、病魔は容赦なく二人の命を削り取っていった。
やがて、二人は逝った。
葬式の日は、冷たい雨が降っていた。
喪服に身を包んだ“本当の親族”たちが、どこからともなく湧き出し、イナゴのように家に押し寄せてきた。彼らは、祭壇の前で涙を流してみせたが、その目は乾いていた。彼らが見ていたのは、遺影の笑顔ではなく、老夫婦が残した通帳と、土地の権利書だけだった。
「お前は、本当の身内じゃない」
親戚の男が、吐き捨てるように蒼に言った。
「血も繋がってない他人だ。ここに居座る権利なんてないんだよ」
大人たちは、家の中をひっくり返し、金目のものを全て段ボールに詰め込んだ。彼らは“相続”という名の正義を振りかざし、蒼という存在をゴミのように無視した。
蒼は、抵抗しなかった。泣き叫ぶこともしなかった。
ただ、部屋の隅でじっと見ていた。
満たされているはずの大人たちが、何も持たない自分から、さらに奪っていく光景を。
彼らが去った後、残されたのは空っぽの家という「器」だけだった。電気代も、水道代も、払う大人がいなくなった家は、すぐに死んだように静まり返った。
学校へは行っていない。親ももういない。
彼にあるのは、震災で学んだ「失うことの唐突さ」と、親族たちから学んだ「奪われる前に奪う」という、歪んだ生存本能だけだった。
――持っている人が、持っていない人にあげる。
電車の中で女性に語った論理。それは、彼なりの皮肉だったのかもしれない。あの親族たちは、持っていない僕に何もくれなかった。だから僕は、持っている人から自分でもらうことにした。
だめなこと? なぜ? 誰も僕を守ってくれないのに?
肉まんを飲み込むと、胃袋が温かくなり、少しだけ眠気が訪れた。
薄汚れた毛布を頭からかぶる。
暗闇の中で、蒼はあの女性の顔を思い出した。彼女は泣きそうな顔をしていた。僕の手を握った手は、とても温かかった。あの親族たちの、冷たい手とは違っていた。
「雨、降らないかな」
空が二つになる場所で、また彼女に会えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、蒼は膝を抱え、音のない家の中で静かに瞳を閉じた。




