第4話 静かな墓標
街の喧騒を抜け、人気のない昼下がりの公園に辿り着いた頃には、二人の息はすっかり上がっていた。
安心感がどっと押し寄せたのか、滝沢は水道の蛇口を捻り、こびりついた血を乱暴に洗い落とす。冷たい水が赤黒い汚れを流していくのを、マキは少し離れた場所から見つめていた。
「おい」
顔を拭いながら滝沢が言った。
「お前、少し匂うぞ。あそこの銭湯で綺麗にしてこい」
「はあ!?」
マキが眉を吊り上げる。
「なによそれ! あたしまだ16なんだけど! 乙女に向かって酷くない!?」
「事実は事実だ。ほらよ」
滝沢は聞く耳を持たず、ポケットからクシャクシャになった紙幣を取り出し、マキに押し付けた。
「いいから行ってこい。俺はここで待ってる」
そう言うと、滝沢は古びたベンチにどかりと腰を下ろした。全身から力が抜け、泥のように重い。
マキは唇を尖らせて抗議しようとしたが、滝沢の顔色を見て言葉を飲み込んだ。
「……わかったわよ。でも、逃げないでよ」
「ああ、逃げん」
「一緒に行かないの?」
「少し休みたいんだ」
滝沢はそれだけ言うと、深い溜息と共に目を閉じてしまった。
マキは手の中の皺だらけの紙幣を握りしめ、渋々ながらも昼間の銭湯へと足を向けた。
◇◇◇
「あの野郎、こんな所でのんきに寝とるやないか……」
公園の植え込みの陰、双眼鏡を下ろした女が忌々しげに吐き捨てる。
「人が報奨金までかけて血眼になって探してたっちゅうのに」
隣にいたリョウが、苦笑まじりに言った。
「まあまあ。無事に見つかったんだから、良かったじゃないか」
「葉山、お前ほんま甘ちゃんやな」
女は呆れたように鼻を鳴らした。
斎藤 燈子は地下組織《UNDERLINE》のリーダー格。
以前、リョウたちが政務室の地下サーバー室から脱出する際に協力して以来、腐れ縁のような関係が続いている。
6日前、滝沢が組織の治療室から姿をくらませてからというもの、彼女はリョウと共にその行方を追い続けていた。
「真白はどうしたんだ?」
リョウの問いに、彼女は視線を公園のベンチに戻したまま短く答える。
「あの子には別の案件、頼んどる」
「そうか」
リョウは頷き、少し声を潜めた。
「……なあ。《篠原孝司》の件だが、死因は結局、滝沢が関与したわけじゃないんだろ?」
「ああ」
燈子は煙草を取り出しそうになる手を止めた。
「あいつが接触する前に、神納の私兵が暴走したらしいわ。あいつはそれを利用して、自分が死んだことにしたみたいや」
「……なるほどな」
「何も言わんのが漢やと思っとるんか、あのアホは」
燈子は苛立ちを隠そうともしない。
リョウは一拍置いてから、静かに言った。
「そうだな。今回もだが、何か言ってくれれば……」
「まあええわ。このあとあいつがどこ行くか、つけるで。絶対バレんようにするからな」
燈子は身を低くし、移動の準備を始める。
リョウが心配そうに「今すぐ連れ戻さないのか?」と尋ねるが、燈子は首を横に振った。
「他にもいろいろあんねん」
それだけ言い残し、燈子は黙り込んだ。
◇◇◇
「オジさん!」
風呂上がりのさっぱりした顔で、マキが声を掛けた。
ベンチでまどろんでいた滝沢は、眩しそうに目を細める。
「オジさんじゃない」
「ふふん、さっきの暴言のお返しよ」
マキは濡れた髪を拭きながら、悪戯っぽく笑う。
「着替えは? 目的を果たしてから用意するって言ってたけど」
「ああ、行くぞ」
滝沢は重い腰を上げ、歩き出した。
「どこへ行くの?」
「行くところがある」
「だからどこよ?」
「時間が無いんだ」
短く切り上げられ、マキは頬を膨らませながらも、その広い背中を追った。
辿り着いたのは、街の喧騒から切り離されたような、緑が色濃く広がる静かな墓地だった。
滝沢は迷うことなく、その中を進んでいく。先ほどまでの疲労を感じさせない、吸い込まれるような足取りだった。
やがて一つの墓標の前で、彼は足を止めた。
静かに、何も言わず、ただ佇む。
まるで、そこにいる誰かと対話するように、滝沢は墓の前で目を閉じた。
風が木々を揺らす音だけが響く、静謐な時間。
しばらくして、滝沢がゆっくりと目を開け、振り返った。
「待たせたな」
歩き出そうとするその背中に、たまらずマキが尋ねる。
「……誰のお墓なの?」
滝沢は一瞬躊躇いを見せたが、静かに答えた。
「妻と、娘の墓だ」
「えっ……」
マキは息を飲む。
「今日が、命日なの?」
滝沢は首を横に振った。
「いいや。命日なんて覚えてない」
彼は墓標に視線を戻し、遠い日を懐かしむように呟く。
「ただ、8年前の今日、この時間にプロポーズしたんだ」
「プロポーズ……」
「まだまだ駆け出しの社会人だったが、『幸せにする』と誓った。……それを守れなかったことを、謝りたかった。それだけだ」
マキが何か慰めの言葉を探そうとした、その時だった。
横合いから猛然と飛び出してきた影が、滝沢の脇腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!?」
鈍い音が響き、滝沢がうめき声を上げて膝をつく。
「オジさん!?」
マキが慌てて滝沢を庇うように前に立つ。
影の正体――燈子は、仁王立ちで滝沢を見下ろし、関西弁で怒鳴りつけた。
「われ! 行きたいところがあるんやったら最初から言わんかい!」
遅れて茂みからリョウが飛び出してくる。
「ちょ、お前やりすぎだろ!」
焦った顔のリョウを無視し、女はなおも滝沢に詰め寄った。
「うちらも組織も変わったんや。おどれは仲間やろが! 面倒な事でも頼れや!」
滝沢は脇腹を押さえてうずくまり、声にならない声で喘いでいる。
女がさらに追撃の説教をしようと息を吸い込んだ瞬間、ポケットのスマホがけたたましく鳴り響いた。
ジリリ、ジリリ……。
「チッ、なんやねん!」
燈子は舌打ちをしてその場を離れ、通話ボタンを押した。
「もしもし、真白か?」
殺気立った空気が少し緩み、リョウが安堵したように滝沢へ近づこうとする。
しかし、事情を知らないマキは警戒を解かない。
「来ないで! 誰なのよ!」
敵意を剥き出しにして滝沢を庇うマキを見て、リョウは困ったように頭を掻いた。
「いや、俺たちは敵じゃない。こいつの……まあ、友人みたいなもんだ」
リョウは手短に事情を話した。自分たちが滝沢を探していたこと、心配していたこと。
その言葉の端々から滝沢への思いやりを感じ取り、マキはようやく安堵の溜息をついた。
リョウは膝をついている滝沢に視線を落とす。
「滝沢。お前が何を抱えて、何を思っているか、俺には全部は分からない。けどな、俺がお前の友であることに変わりはないと、今は思ってる」
リョウは手を差し伸べた。
「ちょっとは頼ってくれよ」
滝沢はリョウを一瞥し、バツが悪そうに目を逸らした。
「……すまない」
電話を終えた燈子が戻ってきた。
「話、終わったか?」
燈子は三人の顔を見回し、何か言いたげな滝沢を先制して睨みつける。
「なんや? うちに勝てんくせに、まだしばかれたいんか?」
滝沢が口をつぐむと、彼女は呆れたように息を吐き、視線をマキへと移した。
「まあええわ。それより……世話んなったな、お嬢ちゃん」
「……ああ、せやな。自己紹介しとかなアカンな」
女は姿勢を正し、軽く顎を上げて笑った。
「うちは斎藤 燈子。見ての通り、ちょっと焼けとるけど地黒ちゃうで? 武の心得はそこそこあんねん。なみの男ぐらいやったら二、三人まとめて這いつくばらせれるくらいにはな」
そう言って、拳を軽く鳴らす。
「ま、そない言うても、今はただの流れ者や。気ぃ抜いたら一瞬でやられる方やけどな」
マキは少し口を開けたまま、何も言えずに見上げた。
燈子は照れ隠しのように鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……ま、よろしく頼むわ。お嬢ちゃん」
予想外の礼にマキが目を丸くする中、燈子は少し気まずそうに頭を掻いた。
「そんでもってな、お嬢ちゃん。あんさんの事、真白っちゅうのに調べてもろうたんやけど……」
燈子の歯切れが悪い。
「親御さん、な……」
その響きに、マキの顔から血の気が引いた。何かを察したように目を伏せ、俯く。
滝沢がよろめきながら立ち上がり、何も言わずにマキの頭にそっと手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で、その手を止めた。
マキは微動だにせず、ただ地面を見つめている。
燈子は困ったように眉を寄せたが、それでも伝えるしかなかった。
「言葉少なめに言うで。親御さんは震災の時、お嬢ちゃんを探しに倒壊寸前の自宅に戻って……そん時の余震で家が崩れて、亡くなったそうや」
世界から音が消えたようだった。
マキは膝から力が抜けたように崩れ落ち、呆然と虚空を見つめた。
「……ひとり、になっちゃった」
小さく、あまりにも頼りない呟き。
リョウも滝沢も、かける言葉が見つからず、ただ立ち尽くした。
滝沢は無意識に、マキの肩へ手を伸ばしかけ――けれど、途中で止めた。
燈子は、安易な励ましの代わりに、現実的な選択肢を提示した。
「組織(UNDERLINE)に来るか? ……それとも、自分で生きていくか。どっちでも、うちは止めへんよ」
その言葉に、滝沢が食って掛かる。
「おい! まだこれからのマキの人生を、組織なんかで過ごさせる気か!」
滝沢が燈子に詰め寄ろうとしたその時、服の裾が強く引かれた。
「……マキ?」
マキが滝沢の服を掴んだまま、震える声で尋ねる。
「オジさんは……これからどうするの?」
滝沢は言葉に詰まった。表の世界での仕事も、帰る家もない。
「……俺は、組織に厄介になるしかない」
口にした瞬間、自分でも苦い響きを感じた。
正直に告げると、マキは顔を上げた。
その瞳には、何かを決意したような強い光が宿っていた。
「じゃあ、私も組織に入る」
「なっ……何を言ってるんだ! お前はまだ――」
「やだ! 独りはやだ!」
滝沢が説得しようとしても、マキは頑として譲らなかった。
その瞳は、滝沢がかつて失った家族への思いと同じくらい、切実で強固だった。
「……はあ」 根負けしたのは滝沢だった。
その目に浮かぶのは、諦めではなく、かつて守れなかった家族への決意だった。
それを見ていた燈子が、ニッと笑う。
「決まりやな。ほな、うちらんトコ帰ろか」
帰り道、リョウとは途中で別れることになった。
「近いうちに、また会おう」
そう約束を交わし、リョウは日常へと戻っていく。
残された三人は、夕闇が迫る中、アジトへと歩を進めた。
歪で、不器用で、けれど温かい、――――新たな「家族」の形がそこにはあった。




