表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンノウン(UNKNOWN)  作者: ニート主夫
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/32

第4話 静かな墓標

街の喧騒を抜け、人気のない昼下がりの公園に辿り着いた頃には、二人の息はすっかり上がっていた。


安心感がどっと押し寄せたのか、滝沢は水道の蛇口を捻り、こびりついた血を乱暴に洗い落とす。冷たい水が赤黒い汚れを流していくのを、マキは少し離れた場所から見つめていた。


「おい」

顔を拭いながら滝沢が言った。


「お前、少し匂うぞ。あそこの銭湯で綺麗にしてこい」


「はあ!?」

マキが眉を吊り上げる。


「なによそれ! あたしまだ16なんだけど! 乙女に向かって酷くない!?」


「事実は事実だ。ほらよ」

滝沢は聞く耳を持たず、ポケットからクシャクシャになった紙幣を取り出し、マキに押し付けた。


「いいから行ってこい。俺はここで待ってる」


そう言うと、滝沢は古びたベンチにどかりと腰を下ろした。全身から力が抜け、泥のように重い。


マキは唇を尖らせて抗議しようとしたが、滝沢の顔色を見て言葉を飲み込んだ。


「……わかったわよ。でも、逃げないでよ」


「ああ、逃げん」


「一緒に行かないの?」


「少し休みたいんだ」


滝沢はそれだけ言うと、深い溜息と共に目を閉じてしまった。


マキは手の中の皺だらけの紙幣を握りしめ、渋々ながらも昼間の銭湯へと足を向けた。


◇◇◇


「あの野郎、こんな所でのんきに寝とるやないか……」

公園の植え込みの陰、双眼鏡を下ろした女が忌々しげに吐き捨てる。


「人が報奨金までかけて血眼になって探してたっちゅうのに」


隣にいたリョウが、苦笑まじりに言った。


「まあまあ。無事に見つかったんだから、良かったじゃないか」


「葉山、お前ほんま甘ちゃんやな」

女は呆れたように鼻を鳴らした。


斎藤さいとう 燈子とうこは地下組織《UNDERLINE》のリーダー格。

以前、リョウたちが政務室の地下サーバー室から脱出する際に協力して以来、腐れ縁のような関係が続いている。


6日前、滝沢が組織の治療室から姿をくらませてからというもの、彼女はリョウと共にその行方を追い続けていた。


「真白はどうしたんだ?」


リョウの問いに、彼女は視線を公園のベンチに戻したまま短く答える。


「あの子には別の案件、頼んどる」


「そうか」

リョウは頷き、少し声を潜めた。


「……なあ。《篠原孝司》の件だが、死因は結局、滝沢が関与したわけじゃないんだろ?」


「ああ」

燈子は煙草を取り出しそうになる手を止めた。


「あいつが接触する前に、神納の私兵が暴走したらしいわ。あいつはそれを利用して、自分が死んだことにしたみたいや」


「……なるほどな」


「何も言わんのがおとこやと思っとるんか、あのアホは」

燈子は苛立ちを隠そうともしない。


リョウは一拍置いてから、静かに言った。


「そうだな。今回もだが、何か言ってくれれば……」


「まあええわ。このあとあいつがどこ行くか、つけるで。絶対バレんようにするからな」

燈子は身を低くし、移動の準備を始める。


リョウが心配そうに「今すぐ連れ戻さないのか?」と尋ねるが、燈子は首を横に振った。


「他にもいろいろあんねん」


それだけ言い残し、燈子は黙り込んだ。


◇◇◇


「オジさん!」

風呂上がりのさっぱりした顔で、マキが声を掛けた。


ベンチでまどろんでいた滝沢は、眩しそうに目を細める。


「オジさんじゃない」


「ふふん、さっきの暴言のお返しよ」

マキは濡れた髪を拭きながら、悪戯っぽく笑う。


「着替えは? 目的を果たしてから用意するって言ってたけど」


「ああ、行くぞ」

滝沢は重い腰を上げ、歩き出した。


「どこへ行くの?」


「行くところがある」


「だからどこよ?」


「時間が無いんだ」


短く切り上げられ、マキは頬を膨らませながらも、その広い背中を追った。


辿り着いたのは、街の喧騒から切り離されたような、緑が色濃く広がる静かな墓地だった。


滝沢は迷うことなく、その中を進んでいく。先ほどまでの疲労を感じさせない、吸い込まれるような足取りだった。


やがて一つの墓標の前で、彼は足を止めた。

静かに、何も言わず、ただ佇む。

まるで、そこにいる誰かと対話するように、滝沢は墓の前で目を閉じた。


風が木々を揺らす音だけが響く、静謐な時間。


しばらくして、滝沢がゆっくりと目を開け、振り返った。


「待たせたな」


歩き出そうとするその背中に、たまらずマキが尋ねる。


「……誰のお墓なの?」


滝沢は一瞬躊躇いを見せたが、静かに答えた。


「妻と、娘の墓だ」


「えっ……」

マキは息を飲む。


「今日が、命日なの?」


滝沢は首を横に振った。


「いいや。命日なんて覚えてない」


彼は墓標に視線を戻し、遠い日を懐かしむように呟く。


「ただ、8年前の今日、この時間にプロポーズしたんだ」


「プロポーズ……」


「まだまだ駆け出しの社会人だったが、『幸せにする』と誓った。……それを守れなかったことを、謝りたかった。それだけだ」


マキが何か慰めの言葉を探そうとした、その時だった。


横合いから猛然と飛び出してきた影が、滝沢の脇腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。


「ぐっ……!?」


鈍い音が響き、滝沢がうめき声を上げて膝をつく。


「オジさん!?」


マキが慌てて滝沢を庇うように前に立つ。


影の正体――燈子は、仁王立ちで滝沢を見下ろし、関西弁で怒鳴りつけた。


「われ! 行きたいところがあるんやったら最初から言わんかい!」


遅れて茂みからリョウが飛び出してくる。


「ちょ、お前やりすぎだろ!」


焦った顔のリョウを無視し、女はなおも滝沢に詰め寄った。


「うちらも組織も変わったんや。おどれは仲間やろが! 面倒な事でも頼れや!」


滝沢は脇腹を押さえてうずくまり、声にならない声で喘いでいる。


女がさらに追撃の説教をしようと息を吸い込んだ瞬間、ポケットのスマホがけたたましく鳴り響いた。


ジリリ、ジリリ……。


「チッ、なんやねん!」

燈子は舌打ちをしてその場を離れ、通話ボタンを押した。


「もしもし、真白か?」


殺気立った空気が少し緩み、リョウが安堵したように滝沢へ近づこうとする。


しかし、事情を知らないマキは警戒を解かない。


「来ないで! 誰なのよ!」


敵意を剥き出しにして滝沢を庇うマキを見て、リョウは困ったように頭を掻いた。


「いや、俺たちは敵じゃない。こいつの……まあ、友人みたいなもんだ」


リョウは手短に事情を話した。自分たちが滝沢を探していたこと、心配していたこと。

その言葉の端々から滝沢への思いやりを感じ取り、マキはようやく安堵の溜息をついた。


リョウは膝をついている滝沢に視線を落とす。


「滝沢。お前が何を抱えて、何を思っているか、俺には全部は分からない。けどな、俺がお前の友であることに変わりはないと、今は思ってる」


リョウは手を差し伸べた。


「ちょっとは頼ってくれよ」


滝沢はリョウを一瞥し、バツが悪そうに目を逸らした。


「……すまない」


電話を終えた燈子が戻ってきた。


「話、終わったか?」


燈子は三人の顔を見回し、何か言いたげな滝沢を先制して睨みつける。


「なんや? うちに勝てんくせに、まだしばかれたいんか?」


滝沢が口をつぐむと、彼女は呆れたように息を吐き、視線をマキへと移した。


「まあええわ。それより……世話んなったな、お嬢ちゃん」


「……ああ、せやな。自己紹介しとかなアカンな」


女は姿勢を正し、軽く顎を上げて笑った。


「うちは斎藤さいとう 燈子とうこ。見ての通り、ちょっと焼けとるけど地黒ちゃうで? 武の心得はそこそこあんねん。なみの男ぐらいやったら二、三人まとめて這いつくばらせれるくらいにはな」


そう言って、拳を軽く鳴らす。


「ま、そない言うても、今はただの流れ者や。気ぃ抜いたら一瞬でやられる方やけどな」


マキは少し口を開けたまま、何も言えずに見上げた。


燈子は照れ隠しのように鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


「……ま、よろしく頼むわ。お嬢ちゃん」


予想外の礼にマキが目を丸くする中、燈子は少し気まずそうに頭を掻いた。


「そんでもってな、お嬢ちゃん。あんさんの事、真白っちゅうのに調べてもろうたんやけど……」


燈子の歯切れが悪い。


「親御さん、な……」


その響きに、マキの顔から血の気が引いた。何かを察したように目を伏せ、俯く。


滝沢がよろめきながら立ち上がり、何も言わずにマキの頭にそっと手を伸ばし、触れるか触れないかの距離で、その手を止めた。


マキは微動だにせず、ただ地面を見つめている。


燈子は困ったように眉を寄せたが、それでも伝えるしかなかった。


「言葉少なめに言うで。親御さんは震災の時、お嬢ちゃんを探しに倒壊寸前の自宅に戻って……そん時の余震で家が崩れて、亡くなったそうや」


世界から音が消えたようだった。


マキは膝から力が抜けたように崩れ落ち、呆然と虚空を見つめた。


「……ひとり、になっちゃった」


小さく、あまりにも頼りない呟き。


リョウも滝沢も、かける言葉が見つからず、ただ立ち尽くした。


滝沢は無意識に、マキの肩へ手を伸ばしかけ――けれど、途中で止めた。


燈子は、安易な励ましの代わりに、現実的な選択肢を提示した。


「組織(UNDERLINE)に来るか? ……それとも、自分で生きていくか。どっちでも、うちは止めへんよ」


その言葉に、滝沢が食って掛かる。


「おい! まだこれからのマキの人生を、組織なんかで過ごさせる気か!」


滝沢が燈子に詰め寄ろうとしたその時、服の裾が強く引かれた。

「……マキ?」


マキが滝沢の服を掴んだまま、震える声で尋ねる。

「オジさんは……これからどうするの?」


滝沢は言葉に詰まった。表の世界での仕事も、帰る家もない。

「……俺は、組織に厄介になるしかない」

口にした瞬間、自分でも苦い響きを感じた。


正直に告げると、マキは顔を上げた。

その瞳には、何かを決意したような強い光が宿っていた。

「じゃあ、私も組織に入る」


「なっ……何を言ってるんだ! お前はまだ――」


「やだ! 独りはやだ!」


滝沢が説得しようとしても、マキは頑として譲らなかった。


その瞳は、滝沢がかつて失った家族への思いと同じくらい、切実で強固だった。


「……はあ」 根負けしたのは滝沢だった。


その目に浮かぶのは、諦めではなく、かつて守れなかった家族への決意だった。


それを見ていた燈子が、ニッと笑う。

「決まりやな。ほな、うちらんトコ帰ろか」


帰り道、リョウとは途中で別れることになった。

「近いうちに、また会おう」

そう約束を交わし、リョウは日常へと戻っていく。


残された三人は、夕闇が迫る中、アジトへと歩を進めた。

歪で、不器用で、けれど温かい、――――新たな「家族」の形がそこにはあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ