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アンノウン(UNKNOWN)  作者: ニート主夫
第2章

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第3話 殺意の陽だまり

廃工場の巨大な鉄扉が、風に吹かれて軋んだ音を立てる。


工場の床には、割れたガラス片と古びた機械油が散乱している。

中央の開けたスペース。吊るされた裸電球の下に、マキが手首を縛られて座り込んでいた。頬には殴られた痕があり、口元から細く血が流れている。


それを取り囲む男は五人。

リーダー格の男が、マキの髪を乱暴に掴み上げる。

「おい、こいつ、なかなかいい値で売れるんじゃねえか?」

下卑た笑いが響く。滝沢は錆びついた階段の陰に身を潜め、その光景を網膜に焼き付けた。


脇腹の傷が焼けるように痛む。だが、その痛みが逆に、生の実感を鋭敏にさせていた。

――幻の中で妻が握ってくれた手の温もり。

あれが“ひだまり”ならば、今の自分を突き動かすのは、その影にある純粋な“殺意”だ。


滝沢は足元のナットを拾い上げ、彼らの死角にあるドラム缶へ向けて投げた。

カァン……

乾いた金属音が、工場の高い天井に反響した。


「あ? なんだ?」

手下の二人が顔を見合わせ、音のした暗がりへと歩み寄る。

「おい、ネズミか?」

「ビビらせやがって……」


彼らが闇に踏み入った、その瞬間だった。

音もなく背後に現れた滝沢の手が男の口を塞ぎ、同時に喉元へ冷たい一撃を見舞う。

男は悲鳴を上げることもできず、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


もう一人が振り返ろうとした刹那、滝沢の拳銃のグリップが側頭部を強打する。

鈍い音と共に、二人目も沈黙した。


残った三人は異変に気づく。

「おい! どうした!」

リーダーが叫び、マキから離れて銃を構える。


戻ってこない仲間。深まる静寂。

スラムのチンピラたちの恐怖がそこにあった。


リーダーが恐怖に駆られて闇へ発砲する。

工場内を一瞬だけ白く照らした。


マズルフラッシュの瞬間、滝沢は動いた。

「て、てめえ!」

銃弾が滝沢の肩をかすめ、鮮血が飛ぶ。

だが彼は止まらない。三人目の男の腕を撃ち抜き、四人目の膝を砕く。


悲鳴が上がる中、滝沢は滑るようにリーダーの懐へと飛び込んだ。

「ひっ……!」

リーダーの目が驚愕に見開かれる。

目の前にいるのは人間ではない。血に濡れ、蒼白な顔をした、幽鬼だ。


滝沢はリーダーの手首を捻り上げて銃を蹴り飛ばし、そのまま錆びた鉄柱へと押し付けた。

銃口を男の眉間に押し当てる。

滝沢の指がトリガーにかかる。


引き金を引こうとした瞬間、

「殺さないで!」

マキは縛られたまま身をよじり、震える声で叫んだ。


滝沢の手が止まる。

マキは恐怖に濡れた瞳で滝沢を見ていた。

「殺したら……あなたが、戻れなくなる!」


その言葉は、滝沢の心臓を直接掴まれたかのように響いた。

脳裏に蘇る光景。

――パパ、見て! ママと作ったの!

娘の声が、銃声の幻聴を打ち消していく。


滝沢の目から、殺意の色がわずかに引いた。


彼はゆっくりと息を吐き出し、銃を下ろした。

だがその代わりに拳を固め、リーダーの顎を打ち抜いた。

男は意識を失い、汚れた床に倒れ伏す。


静寂が戻った。

残ったのは、滝沢の荒い呼吸と、マキのすすり泣く声だけだった。


滝沢はよろめきながらマキのもとへ歩み寄り、拘束を解いた。

自由になったマキは、立ち上がると同時に滝沢にしがみついた。

「怖かった……」


滝沢は、血と油にまみれた手で触れることを躊躇った。

しかし、マキの体温が胸に伝わると、震える手で不器用に彼女の頭を撫でた。

「……すまない」

その言葉は誰に向けたものだったのか。マキにか、それとも亡き家族にか。


「行こう。ここはもう安全じゃない」

滝沢はマキの肩を抱き、出口へと歩き出した。

脇腹の傷からは、まだ血が流れている。

だがその背中は、ここへ来た時よりも少しだけ大きく、そして温かさを取り戻していた。


工場の外には、白み始めた空が広がっている。

夜明けだ。

滝沢は空を見上げ、一度だけ目を閉じた。

(見守っていてくれ)

再び目を開けたとき、その瞳には、もう迷いはなかった。


スラムの汚れた空さえも、夜明けの光は淡い紫と金色に染め上げる。


工場を抜け出した二人の足音が、錆びた路地に反響する。

散乱するガラス片を踏み砕き、崩れかけた建物の影を縫うように走った。


スラムの住人たちは軒先から無言で見送る。

助けようとも、通報しようともしない。

ただ冷たい瞳で、二人の背を刺すだけだ。


滝沢の視界が揺らぐ。血の匂いと共に幻影が脳裏を焼いた。

――妻の笑顔、娘の声。

あまりにも鮮やかで、現実が侵食される。

膝から崩れ落ちそうになった瞬間、マキの声が鼓膜を打った。


「滝沢さん、しっかり!」

その鋭さが、彼を現世へと引き戻す。


迷路を抜けた瞬間、空は白み、ビル群が朝日に染まり始めていた。

紫と金色の光が、スラムの闇を物理的に押し返していく。


滝沢は膝をつき、荒い息を吐き出した。

脇腹から血が滲む。限界だ。

マキが必死に抱き起こし、震える声で言った。

「やっと……出られたんだね」


滝沢は無言で頷く。

その瞳に映るものは、もうスラムの澱んだ闇ではない。街の光だった。


生活の音が聞こえる。自転車の軋み、パンの焼ける匂い、子供の笑い声。

滝沢は奥歯を噛み締め、亡き家族に誓った。

(必ず会いに行く。俺はまだ、死なない)


マキの肩に体重を預け、二人は人の流れへ紛れ込む。

夜明けの街が、彼らを飲み込んでいった。

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