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アンノウン(UNKNOWN)  作者: ニート主夫
第2章

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第2話 幻の家 ―滝沢の夜―

滝沢の言葉は、乾いた火薬のように路地の空気を裂いた。

銃口の冷たさと「組織」という言葉の重みが、焚き火を囲んでいた男たちの表情を、飢えから本能的な恐怖へと瞬時に塗り替える。


体格の良いリーダー格の男は、腰の拳銃を抜く寸前で動きを止め、その目を激しく揺らがせた。

スラムで生きる者にとって、組織の人間を出し抜くリスクは、目の前の獲物を逃すことよりも遥かに重い。


一瞬の沈黙。

先に均衡を破ったのは、威嚇された男たちの、諦めにも似た撤退だった。


「……チッ。今日のところは見逃してやる」

リーダーはそう吐き捨てると、仲間を連れ、焚き火の炎を残して闇の中へ消えていった。


彼らは、滝沢の情報を密告する価値と、今ここで命を落とす危険とを、冷静に天秤にかけたのだ。


緊張が解けた瞬間、滝沢の全身を急激な疲労が襲った。

脇腹の傷が、これまでの無理を訴えるように脈打ち、鋭い痛みを放つ。


彼は銃をポケットに戻す気力もなく、その場に立ち尽くしていたが、限界を悟り、ゆっくりと引き返した。

あの煤けた部屋以外に、今は身を隠す場所がない。


滝沢は、マキのいた部屋の隅、埃っぽい毛布の上に、服を着たまま崩れ落ちた。

意識の底では、まだECGモニターの電子音と、ベンチレーターの重い呼吸音が響いている気がした。

それは、死の淵で聞いた音であり、彼が踏み入れた裏社会の、冷たい律動そのものだった。


疲労は、痛みや警戒心を上回り、滝沢の意識を急速に奪っていく。


意識が闇に沈みきったとき、周囲の空気が一変した。

鼻を突くスラムの異臭は消え、代わりに、石鹸と焼きたてのパンのような温かい匂いが満ちている。

冷たいコンクリートの感触はなく、柔らかく、陽だまりのような温もりが体を包んでいた。


滝沢は目を開ける。

そこに広がっていたのは、くすんだベニヤ板の天井ではなく、見慣れたリビングの白い漆喰の天井だった。

窓の外からは、車のクラクションではなく、子どもの笑い声と、公園のボールの音が聞こえる。


「……あなた」

声がした。振り返ると、そこに妻が立っていた。

彼女は、報復で命を落とす前の、穏やかで柔らかな笑顔を浮かべている。

エプロン姿で、手に湯気の立つマグカップを持っていた。


「おかえりなさい」

妻はそう言って、マグカップを滝沢の手に握らせた。

手のひらに、生者の、確かな温もりが伝わる。


「大丈夫? 顔色が悪いわ。仕事で無理をしたでしょう」

「……ああ」

喉が詰まり、それ以上の言葉が出ない。幻だと理解している。

だが、目の前の存在が放つ温かさ、優しさ、その全てが、今の滝沢にとって絶対的な現実だった。


「パパ!」

足元から幼い声がした。娘だ。

まだ彼が拳銃を握ることを知らなかった頃の、無邪気な笑顔で、滝沢の膝に小さな手を乗せる。


「見て! ママと作ったの!」

娘が差し出したのは、紙でできた歪な折り鶴だった。


「ちゃんと休んでね」

妻はそう言って、冷たい血と傷を負った滝沢に手を添えた。

その手の甲の、微細な血管の感触までが鮮明に伝わってくる。


「私たちは、ずっと見ているから。安心して」

それは、赦しであり、慰めであり、深い愛の言葉だった。


滝沢は、その暖かさに抗えなかった。

この一瞬だけ、この永遠に続く幻の中でだけ、彼は、ただの「夫」であり「父」だった。

彼は何も言わず、妻の手を握り返し、子どもの頭を撫でた。


幻影は、音もなく、優しく、霧のように消えていく。

温もりだけが、手のひらと頬と胸の奥に残され、滝沢は再びスラムの冷たい現実に引き戻された。


目覚めたとき、彼の頬は濡れていた。

煤けたベニヤ板の天井。鼻をつく異臭。体中に貼りついた汗と、脇腹の痛み。

全てが、夢の温かさを否定している。


滝沢は、重い息を吐き、胸の奥に残る痛みに背を向けた。

――もう、あの安息の場所はない。

会いたい。

会って抱きしめたい。

もう一度、この手に温もりを取り戻したい。


彼の胸に宿るのは、夢ではなく、現実の決意だった。

行くべき場所は一つ――妻と子どもが眠る場所。


滝沢は、重い体を起こし、ジャケットの内ポケットに収めた拳銃の重みを確かめた。

傷口は塞がっていない。だが、立ち止まるわけにはいかない。


滝沢は、煤けた部屋を出て、スラムの出口を目指して歩き始めた。

昼間よりもさらに陰鬱な路地裏は、闇に潜む警戒心と、獣のような臭気で満ちている。


角を曲がり、わずかに開けた広場に出たとき、滝沢の足が止まった。

視線の先に、マキがいた。

彼女は、自分を助けてくれた時のようではなかった。

数人の陰険な面構えをした男たちに囲まれ、壁際に追い詰められている。


男たちはマキの身体をぞんざいに品定めし、下卑た笑いを浮かべていた。


滝沢は、一瞬、足を止めた。

この場所の倫理は、彼が知る裏社会よりも冷酷だ。

関われば、また命を賭けることになる。


助けることは、彼女への借りを清算する行為になるかもしれない。

だが今の彼の目的は一つ。生き延びること。


――それでも。


マキの声が、掠れながらも確かな意志を帯びて、滝沢の耳に届いた。


「……家族は生きてる、絶対に」

男たちの下卑た言葉を遮るように、マキは絞り出した。


「こんなところで、私は立ち止まらない」

その言葉は、滝沢の脳裏に、妻の穏やかな笑顔と、娘の小さな手を呼び起こした。


――生きていくための温もり。

幻の中で受け取ったその力が、再び胸の奥で灯りを取り戻す。


気づけば、滝沢の体は動いていた。

男たちとマキの間に、冷たい壁のように割って入る。


突然の闖入者に、男たちは動きを止めた。

昼間、滝沢が放った「組織の人間」の威圧を思い出したのか、その目に再び警戒と恐怖が走る。


その一瞬の隙を逃さず、滝沢はマキの手を掴んだ。


「行くぞ」


マキは驚いたが、すぐに状況を理解し、力強く滝沢の手を握り返した。


二人は、怒号と罵声を背に、細く汚れた路地を駆け抜けた。


人気のない場所にたどり着いたとき、滝沢は足を止めた。


「ありがとう。助かったわ」

マキは息を整えながら、まっすぐに滝沢を見た。


滝沢は彼女の手を離し、感情を抑えた声で言った。


「借りを返しただけだ」


短い言葉。だがその瞳の奥には、かすかな揺らぎがあった。

マキはそれを見て微かに笑い、周囲を見回した。


「出口を探しているんでしょう? 私なら知ってる。このスラムは迷路よ。一人で抜けようとしても、また誰かに見つかるだけ。協力するわ」


滝沢は一瞬ためらった。

彼女を連れて行けば、危険が増える。

だが、彼女の言葉は理にかなっていた。

脱出までの時間を短縮できる。


「……わかった。ただし、余計な事はするな」


マキは頷き、二人は再び闇の奥へと歩き出した。

彼らは、より人目の少ない道を選び、沈黙の中で進む。


やがて、マキがぽつりと語り出した。


「私、このスラムの人間じゃないの。元々は、もっと南の街に住んでた」

足元のゴミを蹴りながら、遠い記憶を見つめるように続ける。


「五年前、大きな震災があったでしょう。その時、家族とはぐれたの。両親と、まだ小さな弟がいた」


滝沢は黙って聞いていた。

彼女の声には、悔恨でも悲しみでもなく、ただまっすぐな生の執着が宿っていた。


「生きるために転々として、気づいたらこのスラムにいた。一度足を踏み入れると、もう抜け出せない。幼い私には、どうすることもできなかった。でも……家族は、きっとどこかで生きてる。だから私は、這い上がる機会をずっと待ってた」


滝沢は何も言わなかった。

彼の心は、その言葉に痛みを覚えていた。

家族を失った痛みを知る者同士の沈黙が、二人の間を満たす。


「あなたは?」

マキが静かに尋ねた。

「ここを抜けて、どこへ行くの?」


滝沢は、前方の闇に視線を向けたまま答えた。


「会いたい人がいる」

その声は低く、だが確固としていた。

「会って、もう一度、話がしたい」


スラムの出口が、遠くに見えていた。

荒れたコンクリートの壁の向こう、街灯の光が薄く漏れている。


その時、闇の中から複数の足音が響いた。

足取りは迷いがなく、獲物を囲む捕食者のようだった。


「まさか、組織の人間が、こんな小娘を連れているとはな」

「噂は広まってるぜ。てめえの首には、とんでもねぇ値がついてるらしいな?」


男たちは、滝沢とマキを包囲した。

昼間の連中よりも数が多く、動きに統制がある。


滝沢は咄嗟に拳銃へ手を伸ばした。

だが、リーダー格の男がその一瞬を突いた。


「動くな!」


脇にいた男が、マキへと飛びかかる。


「マキ!」

滝沢が叫ぶ。


その声に反応するように、男はマキの腕を掴み、彼女を盾に取った。


「こいつを助けたいなら、武器を捨てろ」


マキは必死に抵抗したが、男の腕力には敵わない。


「逃げろ!」

滝沢は叫んだ。

だが、男たちはマキを力強く引きずり、闇の中へと姿を消した。


滝沢は、取り残された。

マキがいた場所に残るのは、冷たい沈黙だけ。


――また、奪われた。

知り合って間もない。

それでも、彼女の中にあった光が、自分の手で守れなかった。


後悔と無力感が、鉛のように胸の奥へ沈む。

家族も、そして今また、わずかなマキの希望すらも……


その瞬間、滝沢の心の底で、冷えきっていた何かが砕けた。

悲しみではない。

それは、世界そのものへの怒りだった。


幻の温もりを、幻で終わらせるわけにはいかない。

彼は内ポケットの拳銃を強く握りしめた。

滝沢の心に、炎のような火が灯る。


滝沢は、男たちが消えた路地の奥へ音もなく滑り込んだ。

五感は極限まで研ぎ澄まされていた。

湿った土に残る足跡の深さ、空気に漂う安物の煙草と汗の匂い、遠くで響く金属音の反響。

それらすべてが、脳内で一本の赤い道となって繋がっていく。


スラムは無秩序な迷宮だ。

だが、それを支配しているのは欲望という単一の力。

滝沢はそれを知っていた。


闇雲に追うのではなく、獲物の心理を読む。

彼らが逃げ込むであろう“安全だと信じる場所”へ。


途中、瓦礫の陰で薬物に溺れる男を見つけ、襟首を掴んで壁に叩きつけた。

滝沢の目は、もはや人間のそれではない。

獲物だけを捉える光を宿している。


「数人の男が、娘を連れて通らなかったか。どっちへ行った」

声は低く、地獄の底から響くようだった。

男は恐怖に震え、震える指で一点を示した。


――スラムのさらに奥、汚水を吐き出す巨大な排水管の地区。


滝沢は礼も言わず、闇へと消えた。

拳銃の冷たい感触は、すでに彼の一部と化している。

それは身を守る道具ではない。

奪われたものを取り戻すための鉄の意志だった。


やがて、目の前に巨大な廃工場が現れた。

錆びついた鉄骨が夜空を突き、割れた窓ガラスが虚ろな眼窩のように闇を覗いている。


――ここだ。

腐臭と絶望が凝縮された場所。男たちの匂いが濃い。


滝沢は物陰に身を潜め、内部をうかがった。

中から、下品な笑い声と、マキのかすかな抵抗の声が漏れてくる。


その瞬間、彼の中にあった最後の鎖が砕け散った。

妻の手の温もり。娘の髪の感触。

あの幻の記憶が、今この瞬間のためにあったのだと、滝沢は悟った。


彼は静かにジャケットから拳銃を抜き、鋼鉄の冷たさに、自らの決意を刻みつける。


夜が、終わる。

あるいは、始まる。

彼の、たった一人の戦争が。


――誰にも知られていない、序章にすぎなかった。


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