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アンノウン(UNKNOWN)  作者: ニート主夫
第2章

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第1話 錆びた心音

「ピッ、ピッ、ピッ」。

「シュー……ブッ」。


耳の奥にこびりついているのは、あの金属のように冷たい電子音と、人工呼吸器の動作音だった。

規則正しく、寸分の狂いもなく。心臓の微細な電気信号を、機械は律儀に、そして無感情に刻み続けていた。


その整然とした電子音の合間を縫うように、深く太い、湿り気を帯びた機械的な呼吸音が響く。

空気が送気される「シュー」という冷たい圧力と、肺から押し出される「ブッ」という解放音――それらが病室の空気を支配していた。


意識の底で聞いていたモニターの「ピッ、ピッ、ピッ」という律動が、ある瞬間、突然、冷たい警告のサイレンへと変貌した。


「ピーーーッ! ピッ! ピーーーッ!」


それまでのすべての規則性を打ち破る、甲高く、聴覚を切り裂くような連続音。

それは、監視されている数値のどれか一つが“生”の境界線を越えたことを意味していた。

ただの警告ではない。病室の静寂という名の均衡が一瞬で崩れ去り、死の気配が唐突に立ち上がった――まるで天国の扉を叩く音のように。


アラームが鳴り響くと同時に、遠い廊下の向こうから看護師たちの足音が殺到する。

だが、扉が勢いよく開かれたとき、ベッドにはもう誰もいなかった。


裏組織〈UNDERLINE〉の仲間を巻いて、滝沢は治療室から逃げ出していた。

完治していない傷が、動くたびに脇腹で鋭く主張する。


組織に戻る気にはなれなかった。今の自分に、もはや居場所などない気がした。

路地裏をあてもなく彷徨い、痛む脇腹を押さえながら、彼はついに力尽きる。

コンクリートの壁にもたれた意識が、そのまま深い闇へと沈んでいった。


――次に目を開けたとき、まず視界に入ったのは煤けたベニヤ板の天井だった。


周囲には、埃とカビ、そして洗われていない人間の汗が混じり合ったような、鼻をつく悪臭が漂っている。

ここは病院ではない。まともな人間の住処でもない――それだけは直感で理解できた。


しばらくして、隣の部屋の向こうから物音がした。やがて軋む扉がゆっくりと開き、声がする。


「……気づいたの?」


視線の先に立っていたのは、一人の若い娘だった。

薄暗い室内で、彼女は興味深そうに滝沢を覗き込んでいる。


痛みは残っていたが、体はどうにか動かせそうだった。滝沢が身を起こそうとすると、娘は慌ててそれを手で制した。


「まだ動かないで」


彼は構わず、かすれた声で尋ねた。


「ここは、どこだ」


娘は一言だけ答えた。


「スラムよ」


改めて彼女を観察する。着古した布切れのような服は煤け、光沢を失った髪は油の匂いを放っている。

その風貌は、彼女の口にした「スラム」という言葉の重みを、痛いほど滝沢に突きつけていた。


滝沢は腹部の痛みをこらえながら、もう一度ゆっくりと問いかけた。


「……なぜ、俺を助けた」


返答はなかった。娘はただ大きな目を瞬かせ、何かを推し量るように滝沢の表情を見つめている。

その沈黙が、この場所の倫理観が彼の知る世界とは違うことを示していた。


「治療は、誰が」


「私よ。持てるだけのものを使った」


娘は横に置かれた錆びたブリキ缶を指さし、中から使い古されたガーゼを少しだけ見せた。


「動脈まではいってなかった。運が良かったのよ、あんたは」


運――その言葉に、滝沢はわずかに口の端を上げた。

運など、裏社会の人間に存在しない。あるのは、計算と、時折の偶然だけだ。


「……感謝する」


そう言いながら、滝沢は部屋の隅に視線を走らせた。

彼の武器――組織から持ち出したはずの拳銃が、見当たらない。


「俺の荷物は」


娘はすぐに意図を察した。無言でベッドの足元を指さす。

そこには血で汚れたジャケットと、その横に古びた毛布にくるまれた拳銃が置かれていた。


「人を撃つ道具でしょ。危ないから、触らずに置いておいたの」


この娘は、怖がっていない。

滝沢はそう感じた。極限の場所で生きる人間特有の、諦念と警戒が入り混じった無表情――それが、彼女の若さと相まって、より一層不気味だった。


「名前は」


「マキ」


「マキ。俺は滝沢だ。借りを作った。……もう行く」


滝沢はベッドから身を起こした。脇腹の傷が悲鳴を上げたが、無視した。

彼は拳銃を包んでいた毛布を払い、それをジャケットの内ポケットに収めた。重さが戻り、わずかな安心が全身を満たす。


マキは戸口に立つ滝沢の背に、静かに声をかけた。


「どこへ行くか知らないけど、気をつけて。このスラムは、病気や暴力よりも――誰かの密告で死ぬ人間の方が多いから」


その言葉に、滝沢の背筋を冷たいものが走った。

このスラムが“表”の世界とはまったく違う種類の危険を孕んでいることを、彼は改めて理解した。


言葉を返さず、部屋を出る。外の空気は澱み、陽の光さえ汚れているように見えた。


――スラムという名の迷宮に、滝沢は足を踏み入れた。


一歩外に出た瞬間、滝沢は全身でこの街の空気を吸い込んだ。

マキの部屋の異臭など、まだましな方だった。外は、排泄物、ゴミ、腐敗臭、そして底なしの不安が混ざり合った陰惨な臭気に満ちている。


日が傾きかけた路地は迷路のように入り組み、見えるものすべてが崩れかかっていた。

壁は落書きと苔に覆われ、窓ガラスは割れている。


滝沢は内ポケットの拳銃の重みを確かめた。

傷は鈍く痛む。だが、それ以上に、無数の視線が全身に突き刺さるのを感じた。


血痕の残るジャケットと、場違いな“よそ者”の気配。

路地にたむろする男たちが、獲物を見つけた獣のように笑っている。飢えと警戒、そして残忍な期待をその目に宿して。


マキの言葉が脳裏をよぎる。


――このスラムは、病気や暴力よりも、密告で死ぬ人間の方が多い。


密告。つまり、金になる情報。


滝沢が〈UNDERLINE〉の人間であり、重傷を負った男である――それだけで命は商品になる。


彼は脇腹の痛みを無視し、視線をまっすぐ前へ向けた。

この場所で視線を合わせることは、戦いを意味する。


角を曲がると、焚き火を囲む数人の男たちが見えた。

その中の一人が、唾を吐き捨てながら声をかけてくる。


「おい、そこのカモ。どこへ行く?」


滝沢は立ち止まらなかった。無視こそが、最大の牽制になることを知っている。


しかし男はしつこく、低く脅すように続けた。


「そのジャケット、随分と上等じゃねえか。……それと、そのポケットの重みも見せてもらおうか?」


――見抜かれている。


滝沢は無言で立ち止まり、ゆっくりと首だけを回して男たちに視線を向けた。


焚き火の中心にいた、最も体格のいい男が立ち上がる。


「知りたいことがある」滝沢は、男たちを無視して口を開いた。

「この街の出口と、最近ここに“よそ者”の集団が入ってきていないか」


男はせせら笑った。


「その答えは、お前の脇腹の傷がいくらで売れるか次第だな、兄ちゃん」


その背後――焚き火の明かりの下で、わずかに金属が光った。

男の腰には、錆びたナイフではなく、新品同様の小型オートマチックがあった。


マキの言葉が脳裏で再び響く。

密告と暴力。その両方が、すでに滝沢を包囲している。


滝沢の表情は、変わらなかった。


「……俺は、組織の人間だ」


その言葉と同時に、彼は内ポケットの拳銃に手を伸ばす。

刹那、男たちの表情が凍りついた。

スラムの人間にとって、“組織”という言葉の意味を、滝沢はよく知っている。


「手を放せ!」

焚き火の男が叫び、腰の銃を抜こうとした。


だがそれより早く、滝沢の銃口が彼を捉えていた。


「情報は――金で買うか、力で奪うかだ。俺は、後者を選ぶ」


その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。

この世界では、奪う者が生き、迷う者が死ぬ。

滝沢はそれを、もう何度も見てきた。

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