行水
「おい」
「はい?」
おれは顔を上げて、助手席にいるマツダを見た。
「貧乏ゆすり、うぜえな。緊張してんのか?」
車の揺れだと思っていたが、自分の足が震えていたらしい。おれは「あ、はい……初めてで」と答えた。マツダは鼻で笑った。
「俺は二度目だ。叩きなんて大したことねえよ」
「は、はい……」
マツダは得意げに言ったが、強盗の経験を誇るのはどうかと思った。運転手が「もうすぐ着きます」と言い、マツダが「うっし」と呟く。
ああ、いよいよだ。これからおれは強盗に加担する。いわゆる“闇バイト”だ。簡単な仕事だと聞いて来たのに、このマツダという男に会って早々、運転免許証とスマホを取り上げられ、逃げ道を断たれた。
「おい、馬鹿。それは頭につけんだよ。そうすりゃ両手が空くだろ」
「あ、はい」
おれは覆面を被り、その上からヘッドライトを装着した。
「あの、マツダさん……」
「先輩」
「え?」
「俺のことは先輩と呼べ。余計な情報を漏らすな」
「は、はい……あの、じゃあ、おれのことはなんて呼ぶんですか?」
「そのままイトウでいいだろ。ありがちな名字だし、どうせ偽名だと思われる」
「そうですかね……」
車が停まり、先輩とおれは車を降りた。先輩はバールを、おれはガムテープと結束バンドを持っている。
住宅街に並ぶ、古びた日本家屋。塀を乗り越えて庭に入る。門が錆びていて、開けると音がするらしい。そういうことは事前に教えてほしい。標的は一人暮らしの老人ということ以外、おれには何も知らされていない。
縁側の窓と、その奥にある障子が少し開いている。『楽に入れる』って、こういう意味か。おれは少しだけ安心して、靴のまま家に上がった。
家主はすぐに見つかった。
布団の上で寝ている老人。着物姿で、布団は掛けていない。最近は夜も涼しくなったというのに、寒くないのだろうか。感覚が鈍っているのかもしれない。
枕元にはメガネが置かれていた。金縁らしく、ヘッドライトの光を受けて鈍く光った。
「ん、だ、誰だあ……う!?」
先輩の動きは素早かった。老人の腹を踏みつけ、おれに手を差し出す。何を求められているかわからず、おれは戸惑った。
「ガムテープとタオル! さっさとしろ!」
怒鳴られて、慌てて渡した。先輩はタオルを老人の口にねじ込み、その上からガムテープでぐるぐる巻きにした。
「金はどこだ。言え! 殺すぞ!」
「あ、あの、口塞いだら喋れないんじゃ……」
「馬鹿。指で教えられんだろ。あ、結束バンドもよこせ。縛っとく」
「結局縛るんじゃないですか」
「うるせえな。まず脅すんだよ。よし。おい、金はどこに、ん? クソッ! このジジイ、漏らしやがった!」
先輩が跳ねるように飛び退いた。老人が突然、勢いよく尿を垂れ流し始めたのだ。着物の裾から見えた股引に、じわじわと広がる濡れ跡。布団の上にもみるみるうちに染みが広がっていき、古びたデパートの男子トイレのような臭いが漂ってきた。
「おい、さっさと教えろよ!」
先輩が再び怒鳴りつけたが、老人はうめくだけで、いや、ただただ尿を漏らし続けた。ものすごい量だ。布団はすでにぐっしょりと湿っている。踏んだ足元から、ベチャッと嫌な音がした。
だが、なおも老人は止まらなかった。まるで出産中の妊婦のように股を広げ、膝を立てて尿を流し続けていた。
苛立った先輩が老人の腹を踏みつける。その瞬間――まるで霧吹きのように、霧状の尿が勢いよく辺り一帯に飛び散った。おれの手や顔にもそれは容赦なく降り注いだ。目が染み、おれは思わず声を上げた。
「クソが、おい! トイレに閉じ込めとけ!」
「は、はい」
おれは老人の背後に回り込み、両脇に腕を入れて抱き上げた。
老人は暴れなかった。だが、ずるずると引きずる間も尿を垂れ流していた。その勢いは蛇口を全開にしたようで、股引を貫通し、放物線を描きながら、床に肥え太った芋虫のような濡れ跡を残していく。
トイレを見つけるまで、思いのほか手間取った。ようやく見つけてドアを開けると、そこは和式だった。
家の中だというのに、公衆トイレのような臭いが鼻を刺し、反射的に顔を背けた。老人を中へ押し込んでドアを閉めても、臭いは鼻の奥にへばりついて消えない。
何度か鼻をすすると、今度は自分のズボンから老人の小便の匂いが漂ってきた。
老人の着物は腰のあたりまでびっしょり濡れていた。おれの軍手も湿っているが、たぶんこれは老人の脇汗だろう。おれは嫌な気分になった。
「おい、金庫があったぞ。来い」
先輩が部屋から顔を出して、おれを呼んだ。廊下を渡り、行ってみると、そこには黒い金庫が置かれていた。鍵穴はなく、テンキー式だ。
おれと先輩は部屋中をひっくり返して、番号の書かれたメモを探した。老人は大抵どこかに書き留めているものらしい。だが、いくら探しても見つからなかった。
「仕方ねえ、ジジイから聞き出すか」
先輩が忌々しげに言い、再びトイレへ向かうことになった。
「開けろ」
「はい……」
おれはドアノブを握った。開けた瞬間、顔に尿を浴びるのではないか。そんな予感がして、身を少し引きながら慎重にドアを開けようとした。
「なんか重い気が――うわっ!」
だが無駄だった。内側からかかる重みでドアが一気に開き、波が襲ってきた。違う、尿だ。海岸に打ち寄せる波のように、尿の濁流が足元を駆け抜けた。老人の尿はさらに勢いを増しており、まるで噴水のように噴き出していた。
「おい、ジジイ……いい加減にしろよ!」
「あ、待っ――」
おれは止めようとしたが間に合わなかった。先輩が老人の腹を蹴った。その瞬間、尿の勢いが一段と強まり、破裂した水道管のような音を立てて噴き出した。
「もごごおおお! もごっ、もぐううううう!」
老人は苦しんでいるのか、それとも恥ずかしがっているのか、はたまた喜んでいるのか、顔を真っ赤にして悶えた。
「おい、なんとかしろ!」
「なんとかって言われても! 元はといえば、先輩が脅したり蹴ったりするからでしょう!」
「うるせえ! ああ、そこ! ジャムの空き瓶! それをチンコに嵌めて、ガムテープでぐるぐる巻きにしろ!」
「そんなことで、どうにかなりますかね!?」
「うるせえ、やれよ! お前んちの家族を襲うぞ!」
老人の小便が理由で被害を受けたら、うちの家族もたまったものではないだろう。おれは観念し、廊下に転がっていた空き瓶を手に取った。
顔に飛沫がかからないよう慎重に動き――二秒でその努力は無駄に終わったが――老人の背後に回り込む。抱き起こし、股引とパンツを下ろした。
現れたペニスは小ぶりだったが、激しく上下に震えていた。
おれは狙いを定め、瓶をさっと被せた。だが次の瞬間、まるでビールサーバーから注ぐように瓶は瞬く間に満たされ、あふれた尿が隙間から勢いよく噴き出した。
とても抑えきれず、おれは思わず瓶から手を放した。
すると、瓶はロケットのように勢いよく飛び出し、先輩の額に直撃した。
先輩は「ぶっ」と情けない声を上げ、尿の水たまりに倒れ込んだ。水しぶきが跳ね上がる。気づけば床一面が尿で満たされ、まるで池のようになっていた。
「先輩、うっ!?」
いきなり胸を押された。老人の抵抗かと思ったが違う。尿の噴流によって、おれたちの体が自然と浮き始めたのだ。
このままではトイレの奥に押し込まれる。踏ん張ろうとするが、足元が滑ってどうにもならない。おれは老人の脇から手を差し込み、ぎゅっと抱えた。壁と老人の背に挟まれながらも、なんとか体の向きを変えて脱出には成功した。しかし、足を止められず、そのまま台所まで追いやられた。
老人の背からの押しがさらに強まり、踵が浮いた。このままでは天井に張り付けられてしまう。
おれは老人を持ち上げ、重心を踵にかけた。しまった――その拍子に、二人でぐるぐると回転を始めた。
消防車の放水のような勢いで、部屋中に尿が撒き散らされる。
「あああああああああ!」「もごおおおおおお!」
冷蔵庫に貼られた水道業者のマグネット広告を薙ぎ払い、棚の上の電子レンジを落とし、掛け時計を破壊し、こっちにやってきた先輩を居間の窓ごと外へ吹き飛ばした。
おれは回転と臭気に酔い、宙に浮かぶような感覚に包まれた。体が軽い。このまま外に出れば、おれは宇宙に飛んでいけるんじゃないか。そうだ、おれは子供の頃、宇宙飛行士になりたかったんだ。
――いや、違う。体が軽く感じたのは、老人の体が萎み始めているからだ。
放尿し続けたせいか、どんどん縮む。ついには赤子ほどの大きさになり、ようやく小便が止まった。
おれは老人の口からガムテープを剥がし、タオルを抜き取った。
「あんぎゃああ! ああん!」
泣き声が響く。老人は完全に赤子になっていた。
おれは泣き続ける赤子をテーブルの上に置き、ふと床を見た。笹舟のように一枚の紙が尿の海に浮かんでいた。拾い上げると、そこには暗証番号らしき数字が書かれていた。
おれは金庫のある部屋に戻り、その番号を入力した。
カチリ、と重たい音。扉が開く――
「うおっ!」
金庫が爆ぜるように開き、火花が散った。同時に、中から赤い翼を持つ何かが飛び出した。
それは迷いなく窓を突き破り、夜空高く舞い上がっていった。
たぶん、不死鳥だったのだろう。
おれは部屋を出て、居間に戻った。泣き続ける赤子を横目に見たあと、庭で気絶している先輩に近づいた。
免許とスマホを取り返し、深く息を吐く。
「人生、やり直そう……」
夜空の星が、一つ光った。