かつての自分
不思議な体験から一ヶ月が経過していた。あれから兄弟の生活は少しずつ変化している。
アトラスは一見すると習い事や勉強をサボっている。しかし彼は、自らが前世で手にした力が、日を追うごとに蘇ってくるのを感じており、それを抑えることを第一に考えていた。
(前世の力が完全に戻ってしまったら、目立ってかなわん。あの天使は余計なことをしてくれたものだ)
自らの力を刺激しないことに意識を集中しており、側から見れば遊んでばかりの長男になっている。
反対にイルは魔法の練習に夢中になっていた。
購入した魔導書は完全にマスターしたらしく、時折庭で昼寝をしている兄に、火の玉や氷を見せては褒めてもらいたがった。
ただ、困ったことに弟は、たまに練習のしすぎで魔力切れを起こして倒れることがあり、ロージアン家のみんなを心配させてしまう。
「迷惑かけてごめんなさい。でも……なんで魔法を使い過ぎると、倒れちゃうのかなぁ」
ベッドに運ばれた後、目を覚ました弟は兄に謝罪しつつ、悔しそうに天井を仰いだ。
「魔力を手にした人間は、それが尽きてしまうと体に異常をきたす。特別な故の欠点かもしれないな」
魔力がない人間にとって、魔力切れという現象は理解し難い。魔力が多少戻ってくるまでは、気絶してしまうのも共通していた。
「でもね、以前よりずっと使えるようになったよ。今日なんて五回もできたんだ!」
「良かったじゃないか。魔法だけじゃなく、勉強もできる。人当たりも良いお前は、きっと将来立派な男になるぞ」
「お兄ちゃんは?」
「ん?」
「お兄ちゃんは、魔法とか覚えないの?」
アトラスは小さく笑い、弟の髪を優しく撫でた。
「お前も見ただろう。俺には魔力がない。しかも、努力しても手に入るかどうかは分からない。なら、持たないままでいい」
「でも魔法楽しいよ。ねえ、一緒に覚えようよ。きっとお兄ちゃんなら、すぐできると思うんだ」
「そんな幸運が、俺の身に起こればな。自分から動くつもりはない。大変だからな」
この頃、アトラスは妙な信頼感が生まれていることを、内心では危惧していた。
弟だけではない。これだけ無気力なさまを見せているのに、両親は未だに自分を次期当主にさせたがっている。
たった七歳の少年。しかしどこまで隠しても、前世で培った人間的な魅力までもが、本人の意思とは無関係に目覚め始めている。
彼にとっては迷惑な日常だった。
◇
ある日、アトラスは夢を見た。前世の自分を遠目に眺めている、それは不思議な光景だった。
(俺が見ているのは、夢か? しかも、なぜか自分が夢を見ていることを知っている。こんな嫌な夢があるのか)
そこは人と魔物が殺し合う真夜中の戦場。二度と思い出したくない、記憶の一ページだった。
翼を生やした悪魔、巨大なライオン、死神のような亡霊、鋼鉄の鎧に身を包んだ牛男。
ありとあらゆる魔物達が、数万という大愚勢で襲いかかる戦場は、地獄という言葉ですら生ぬるい。
しかし、人々もまた果敢に戦っていた。人数に負けど、力に劣ろうとも、決して怯まず争い続ける。
それでも劣勢を覆すことはできずにいた。だがそんな悪夢の時代に、たった一人だけ勝ち続ける猛者がいた。
黒い甲冑に身を包み、赤い魔剣を踊らせて、立ちはだかる怪物達を切り殺す。
男の手は常に血で汚れていた。ただ黙々と前にいる敵を倒し続ける。
彼は左腕と右目を失っていた。まだ戦場に出て間もない頃、幾度も生死の境を彷徨った。しかしどんな苦境にも負けず、剣を捨てようとしなかった。
仲間達も、すでに多くを亡くしている。いつも死にゆく者を見送る立場だった。彼の戦いは十年以上も続いている。
過酷な絶望を目にしてもなお、力強さと凶暴さは陰りを見せず、むしろより冴えてくる始末であった。
真夜中の森が、魔物の死体だらけの肉林へと変わるまで、男の剣は止まらない。まるでダンスでもするように、剣が舞い肉片が飛び散る。
あとどれだけ戦い続けていられるだろうか。心は落ち着き払っている。自分でも分からないほど、戦場が苦にならない。
冷静だからこそ見えていた。この血だらけの人生における終点が近いことに。
黒き甲冑は噂話として広がり、やがて逸話が生まれ、いつしか伝説へと変わる。
人々は彼の中に希望を見た。しかし彼は、自分の中に絶望しかないと思う。
「俺は、あの娘だけは助けなくてはいけない」
この戦争はきっと負ける。それが現実だろう。
しかし男には、どうしても譲れない目的が残っている。
今もなお群がる魔物達を切り捨てながら進むのは、その娘を救う為だ。
やがて男は辿り着く。世界を覆い尽くす大群の総本山、魔物達が崇拝する王の城に。
夜の闇よりも不気味な紫色の巨城に、男はたった一人で忍び込み、次々と見張りを殺しては進む。
赤い魔剣は血を吸い続け、闘争の快楽に酔っている。黒い甲冑は殺意を煽り、さらなる暴力を求める。
「お前らと付き合うのも、あと少しだけだ」
つれない独り言を漏らしていると、不意に殺気が集まってきた。いよいよ魔物の集団に見つかった男は、獣すら怯えるほどの咆哮と共に飛びかかった。
難攻不落の要塞と称される、魔王の城。しかしそれ以前に、城に辿り着ける者はほぼいなかった。まして一人などありえない。
稀有な侵入者である彼は、初めこそライオンの檻に迷い込んだネズミと笑われた。その笑みを見せたまま、巨大なトロルは首を飛ばされる。
何百という罠、無限に放たれる多種多様な魔法、集団で覆い被さるように襲いかかる猛獣。しかし、何が迫ろうとも男は全てを薙ぎ払った。
彼は尋常ではない怪力の持ち主である。岩を持ち上げ、巨人の棍棒を弾き飛ばし、ただの蹴りで数十匹という魔物が吹き飛ぶ。
そして何より狂っていた。誰にも予想がつかない力と狂気。だからこそ彼は、王の下へたった一人で辿り着くことができたのだ。