あの日の夢
朦朧とした意識の中で、彼女はただ前を見つめていた。
信じられないものを目にしている。
(これは……夢?)
目前にいる黒き甲冑の男が、押し寄せる魔物をひたすらに切っている。
迫りくる脅威から守ってくれている。
これはまるで、あの時と同じ。
あれから今まで、考えない日は一度もなかった。失った彼を求めて、そうしてここに来たのだから。
不幸の中に、これ以上ない幸福の芽が見える。徐々に意識が明瞭になっていく。
虚な瞳がうっすらと輝き出した。愛する者の背中を目にして。
◇
彼女には前世の記憶がある。
前世ではハーフエルフとして生まれ、名をイレイナといった。
決して恵まれた生まれではない。幼い頃に母を失い、人である父も亡くなると、いつしか父方の親戚をたらい回しにされる生活が始まる。
そんな時、ある島で彼女は一人の少年と出会う。
彼の名前はアイオロスといい、ほんの一時だがよく遊んでいたものだった。
親戚から邪険にされていた彼女にとって、彼と遊んだことだけが明るい思い出である。
だが、別れはすぐに訪れる。次は大陸へと飛ばされ、間もなく戦争に巻き込まれた。
前世はまさに地獄と言える世界に生きた。魔物が次から次へと現れ、人々は抗いつつも殺されていった。
そんな時、貧しい親戚はついに彼女を捨てて逃げた。
ある集落が魔物に襲われ、彼女はみんなが逃げるための囮にされたのである。
殺されると思ったその時、偶然駆けつけた騎士達が救ってくれた。それから身寄りのない彼女は、ふとした機会で騎士団の手伝いをすることになる。
殺されかけた時、不意に発せられた神秘的な魔力。隠された少女の力は、まさに特別であった。それが騎士達の注目を浴びたのだ。
しかし彼女は、戦いよりも素晴らしい才能があった。それは歌だ。
イレイナが優しく歌う度に、人々の荒みきった心が癒えていく。イレイナが笑顔を振りまく度、絶望の淵にあった気持ちが晴れやかになっていく。
その声は唯一無二。人々は初めて彼女の存在を認める。そしてこの時、戦乱の中にあって、待ち焦がれていた再会を果たした。
すっかり大人になったアイオロスと、もう一度会うことができたのである。
しかし、彼はあまりにも変わっていた。右目と左腕がなくなっている。輝いていた瞳も、どこか淀んでいる。
だが、彼女にとってアイオロスの存在は変わらない。幸福な再会であることに変わりはない。彼には数名の仲間がいて、誰もが気さくだった。戦乱の中でさえ暖かい優しさを感じた。
それでも現実は非情である。彼ら彼女らは、魔王が誇る軍勢に確実に追い詰められていく。
しかしアイオロスは諦めない。どんなに死にかけようが、必ず敵を倒して生還する。
壮絶な戦いに明け暮れる背中を見て、自分は何をしてあげられるのかと、彼女は思い悩む日々を過ごした。
どうにかして、彼を支え続けようと決めた。されど運命は悪戯好きであり、決して彼女の思うとおりにしない。
アイオロス達は長い旅に出ることになった。魔王を討ち取るまで、死ぬことになろうとも戻らぬという、強い決意を秘めた出陣だった。
「アイオロス。待ってる、待ってるから。絶対に帰ってきてね」
「ああ。必ず戻る」
別れ際の声を覚えている。子供の頃よりずっと無口で愛想がなくなった男が、久しぶりに笑顔を見せてくれた。イレイナの胸に熱いものが込み上げる。
何があってもここで彼を待とう。そう決めたばかりのことであった。
ある時、イレイナの姿を目にした将軍が、「君は我らが姫君に、よく似ているようだな」と声をかけた。
一国の姫に似ているなどと、まるで信じられない言葉に、彼女はただ戸惑うばかり。
しかしその一言で、王国の騎士達は一つの企てをする。あの美しきモニカ姫には、影となり身を守らせる者が必要だと。
そして突然、イレイナは城に連れられて行き、半ば強引に姫の影武者となった。
実際には命令であり、逆らうことは許されない。こうしてまたも望まぬ生活を送るようになる。
城の中で彼女は、従者や侍女よりも下の扱いであり、居場所のない日々を過ごす。すでにただの身代わり要員でしかない存在にとって、城はまるで独房のようであった。
それからも時は流れ、またしても人生が急激に変わる。恐ろしい終わりの始まりであった。
王国は手酷い襲撃を受け、モニカ姫と瓜二つとなった彼女は魔物達に攫われてしまう。
そして神を呼びだす生贄とされたところを、アイオロスに救われたのだ。
だがそれは、死ぬよりも辛いことだったのかもしれない。魔王軍が崩壊し、世界が平和になった時、イレイナは今度こそ一人になった。
目の前で愛する男の死を見送り、ようやく王国へ戻った時、恐るべき事実を知る。
モニカ姫が殺されていたのだ。それは、自身が攫われてまもない頃だったという。王や大臣達のやるせない怒りは、戻ってきた少女へと向けられる。
かくして彼女はその後、ただ一人牢獄の中で生きるようになった。ろくに食べ物も与えてもらえず、雪の日も毛布すら与えてもらえない。
やがて震えながら息を引き取った。
「会いたい……あなたに、もう一度」
それが最後の言葉。
彼女は知らない。その後新たな魔物の軍勢が生まれ、王国が滅んでしまうことを。
最後の最後に残されたのは、無情な荒野だけであった。
◇
暗い世界を泳いでいるようだった。
彼女はこの世界が何かを知らない。あまりに心細い気持ちのまま、体がゆらゆらと前に進んでいく。
流れに任せるように辿り着いたそこは、まるで星々の楽園であった。
思わず見惚れていると、何かが慌てたようにこちらにやって来る。
彼女は新緑のような髪を短く整えていた。白い服がこれ以上なく似合い、可憐な少女という風貌である。
でも、人間ではないこともすぐに分かる。白くふさふさとした翼が、背中から生えていたから。
「どうも、イレイナさん! 私新人天使のレニって言います。転生は初めてでしたよね?」
「え? てん……せい?」
「あーごめんなさい! ちゃんと説明しなきゃ意味不ですよねー。えーとですね、簡単にいうと、ここは死後の世界です。イレイナさん、あなたは死んじゃったんですよ。そしてこの後、転生するかどうかを決めるんです」
その後も、レニは分かりづらい説明をひたすらに行い、イレイナを困惑させる。
しかし数分話を聞くうちに、ようやく飲みこめてきた。
彼女達天使の力により、自分はある世界に転生することができる。その転生先を決めるための【ガチャ】なるものをするか、このまま暗き闇に堕ちていくか、どちらかを選べというのだ。
イレイナは話を理解した後も、前向きな気持ちになれなかった。
「転生というものは、遠慮します。他の世界に行っても、私はもう頑張れる気がしません。ごめんなさい」
天使は「えー?」と露骨に驚いた様子を見せる。だが、ここでアリアナが残した紙に目を落とすと、コホンと咳払いをした。
「あなたの気持ちは分かりますよ。でもー、このお誘い断っちゃったら、きっと後悔しますよ。だって、あなたがあんなに好きだった彼、そっちの世界にいるんですもん」
「……え……」
魂が激しく揺らめく。思いもよらぬ一言に、心が滅茶苦茶になりかけている。
「そして特別に大サービスです。あなたがもう一度彼と出会える役だけを、このガチャで出るようにしてあげます。必ず会えますよ、それは私達天使が約束します」
「ほ、本当ですか! 本当に」
「ええ。もちろんです。今度こそ幸せになれるかも! でもでも、二つだけこの転生にはルールがあります」
イレイナは興奮と緊張に挟まれながら、天使の説明を待った。少しして、もったいぶるように彼女はいう。アリアナの残した紙をチラチラと見ながら。
「いいですか。あなたは決して自分から、前世はイレイナさんだったっていうことを伝えちゃいけません。それと、イレイナさんだってことを気づかせるような行動もダメ。もしそんなことしちゃったら……終わっちゃいまーす!」
天使は指でバツを作り、魂に見せつける。
「終わっちゃう?」
「はーい! じゃあ転生、始めていいですか? それとも、このまま消えます?」
彼女の迷いはすぐに消え去った。もう一度彼に会える……その衝動に突き動かされ、決意は固まった。
そして彼女は、レオナとしての人生を始めることになったのだ。
◇
松明が倒れている。魔物達はすでに全滅し、魔教徒達も地面に倒れ伏していた。
アトラスの強さは圧倒的だ。まさに一騎当千の力を誇る彼を前にして、食い下がることすらできる者はいない。
それはやはり、タイランも同じはずだったのだが。
「は、ははは! お前は甘いぞ。今度は私の勝ちだ」
切りつけられ、口から血を流していたタイランの体が浮かんでいる。周囲が歪み、大地が揺れ動いている。
空に浮かぶ勾玉が、赤と黒の輝きを放ちながら膨れ上がり、タイランを飲み込んでいった。
直後、恐るべき膨大な魔力と共に、何かがこちらに迫って来ることが、アトラスには察知できた。
そしてこの場が、突如として戦場となりえることも予感している。自分だけなら問題ないかもしれないが、ここには彼女もいる。
アトラスはすぐにレオナを縛る縄を切ると、腕に抱えて跳躍した。
直後、まるで血で染めたような爆発が儀式の場に発生し、周囲が喧騒に包まれる。
夜風を纏いながら飛ぶアトラスは、まるであの時と同じだ。
「ありがとう」
彼女は泣きながら、どうにかして言葉を絞り出した。
(怖かったのだな。悪いことをした)
アトラスは気づいていない。それは彼女が、天使のルールを守っているからである。
夜空の下で、レオナは彼に抱きついていた。強く強く、もう離さないとばかりに。




