手にした地図
男はジャケットに袖を通し、カツラがおかしくなってはいないか、身なりに不審な点はないかと何度も確認する。
今日ほど、自身の服装に気を使ったことはないかもしれない。
彼の周囲にいる三つの影は、それぞれが魔物を引き連れていた。
男は森の中にいる。しかしそれも今だけ。時がくれば街へ繰り出し、そして手に入れるのだ。
今まで欲しくて欲しくて堪らなかった、神への道を。
「タイラン様、我々は手筈どおりで……よろしいのですな」
「……うむ。決して抜かるなよ。良いな」
その一言だけを残し、男は夜の闇へと消えていく。残された影と魔物達もまた、一つずつ姿を消していった。
(必ず叶えてみせる。そして私は世のしがらみから解き放たれ、永遠の快楽を生きるのだ。人間などという、小賢しいだけの器など、いくらでも捨ててくれる)
◇
夜になったばかりの時、リリカはまだ教会にいた。彼女は祈りを続けている。
神から授けられし力により、魔を打ち払う準備をしていた。その傍には、ノアとマーセラスがいる。
二人は彼女を守るべく、行動を共にしていたのだ。
ちなみにこの頃、アトラスは別行動をしている。彼はどうしても気がかりなことがあり、学園の外に出ていたのだ。
一体この先に何があるというのか。マーセラスは不安な気持ちに襲われつつも、剣だけは肌身離さず持っている。
ノアはといえば、相変わらず気楽な様子であった。そんな三人のもとへ、駆け足でやってくる者がいる。彼は学園の教師の一人だ。
「ここにいたか! マーセラス君、君に会いたいという人がいるんだよ。ちょっと来てくれないかい?」
「え、こんな時間にですか?」
「ああ。まったく非常識ではあるんだけどね。その……」
教師はマーセラスの耳に顔を寄せる。
「君のご両親だというんだよ。なんでも、ゼグランドの貴族だとか。君のことをずっと探して、ようやく見つけたというんだ」
「ま……まさか」
彼には教師の話が信じられなかった。今までどうしても戻ることのなかった記憶。未だに顔も名前も思い出せない両親が、自分を見つけて会いに来てくれた。
その知らせは彼を激しく揺さぶった。
「だから、会ってみるだけでもどうだろう。今日のところは」
「わ、分かりました。リリカ、僕はちょっと、今日は」
「大丈夫……また明日ね」
聖女の許可を得て、彼は緊張しながら教師の後をついていった。ドアが閉められ二人になると、ノアはチラリと無表情な聖女に目をやる。
「なんか、すっごい静かだよね」
「……」
その後も、祈りを続ける聖女の近くに彼女はいた。そして、どこか落ち着きなく教会の中を歩き出した。
「ってかさ、本当なの? その脅威ってやつ」
「……すぐそこまで、来てる」
「ふーん。そっか」
ノアの足音だけが、教会内に響いている。リリカは何も気にする様子がない。
「あの……さ。アトラスと知り合ったのって、いつ頃?」
「……子供の頃。どうして?」
「ん? いやー、なんていうか。仲良いのかなって」
「仲は、とても良い」
「ふーん。実は俺も幼馴染なんだ」
ふと、聖女の祈りが止まった。何かに気づいたように立ち上がり、ノアのほうへと振り返る。
「え、どうしたの? 気になっちゃった」
急に落ち着きをなくして頬を染めているノアだったが、リリカの関心は別のところへにあった。ゆっくりと周囲を眺めまわしている。
「……いる」
「へ!? いるって、何が?」
「私達の、敵」
その時だった。教会の扉を猛然と叩く音がする。それはあまりに乱暴で、前にいたノアは一瞬肩が跳ねてしまうほどだ。
「ちょっと! 誰?」
すぐに構えるノアだったが、今回は相手が悪い。扉が開かれた先で立っていたのは、黒いローブを着た不気味な女だった。
「見つけたわよ。あなたが本命ね?」
◇
学園で異変が起きた時、アトラスはグロウアスの広場より離れた、小さな丘にいた。
彼は何も、ただ散歩がてらにここに来ているわけではない。
明らかに見つけてしまったのだ。以前感じた黒いローブの男……猛毒の怪人とほぼ同種の魔力を持ち合わせた存在を。
見た目も怪しい。全身を黒いローブで覆い尽くし、決して人には見られないよう一人、グロウアスの路地裏を歩き続けていた。
彼は微かな魔力でさえ逃さない男である。だからこそ、このローブを纏う存在を見つけることは難しくなかった。
(一体どこに向かおうとしている?)
しばらく街の通りを進み、徐々に森の中へと足を踏み入れていく。気がつけば誰もいない丘の上。
だがそれは、ただの丘ではない。よく見れば死体が転がっている。この近くで暮らしている者達だ。
アトラスははじめこそ木陰から見つめていたが、やがてため息を一つ漏らすと、黒いローブの前に堂々と姿を晒した。
「お前達を誘き寄せるには、餌が必要だと思っていた」
フードの奥にある暗闇が、じっとこちらを注視している。
「しかし、逆に餌を撒かれるとはな。俺を知っているか?」
黒いローブは風に揺れるだけだった。しかし、彼を誘い出そうとしたことはすでに疑いようがない。
「知っている。ここに呼んだのも全部作戦だ。こいつらは邪魔だから死んでもらったまで」
アトラスには不快で堪らなかった。大した理由もなく人を殺す。その心を許せない。
「やはり貴様は、わずかな魔力ですら追えるのか。あの方の仰るとおりだ。もし犬が魔力を嗅げるとしたら、貴様のようになるのかな」
そう言い、男は身に纏っていたローブを脱いだ。その全身は病的に細く、とても戦いなどできそうにない。
しかし、異様にギラついた双眸からは、侮れぬ狂気が漂っていた。
「お前達の目的はなんだ?」
「知りたいのならば、俺と戦うことだな。お前にその度胸があるかどうか、ククク」
男は三歩前に出ると、突然地面に両手の指を思いきり突っ込んだ。大地が震えるような錯覚を覚える。
「さあ、やろうか! ここで死んだ連中よりは、楽しませてくれよ」
歓喜の笑みと共に、怪物は両腕に魔力を込める。両手がさらに地面に沈み、まるで一体化したかのようだ。
「これは……」
アトラスは意外な攻撃に、ただ目を丸くしていた。突如地面が割れ、人の手のような何かが襲いかかってきた。
後転してかわしたところへ、幾つもの石が吹き飛んでくる。確実にこちらの急所を狙っている。
(土の魔法を操るとは、なかなか珍しい)
こうした敵を相手にするのは、彼にとって久しぶりであった。まるで大地を手足のように扱い、武器にも盾にも使ってしまう。
事実、その直後に距離を詰めたアトラスが剣を振るうが、大地から盛り上がった壁に阻まれてしまう。
そして壁からまたも腕が生えてきては、殴ろうとしたり掴もうとしたり、さまざまな動きを見せるのだ。
「はははは! アイツには殺せなかったみたいだが、俺にとっては赤子の手を捻るようなものよ。タイラン様の手を煩わせるまでもない!」
男は主が恐れる敵を追い詰めている、そう思い歓喜を堪えられない。
しかし、彼が見ていた夢は、せいぜい三分ほどでしかなかった。
「タイランはどこだ?」
「ははは! 誰に向かって——」
直後、男の体は舞った。唐突に両腕が切り飛ばされ、直後に蹴りで顎をかち上げられてしまう。
大地に叩きつけられた時、剣の切先が視界に映っていた。口から血が溢れ、身体中が悲鳴を上げる。
「……な、なんで? なんで? なんで?」
男は顔面蒼白になり、パニック状態になっている。アトラスが突きつけているのは、風切りの剣だった。
夜間において、風の刃を視認することは非常に困難である。さらには死角を利用することで、完全に相手を意識の外から襲うことに成功していた。
「タイランはどこにいる? 何を企んでる?」
「ご、ごごに……います、ヨォ」
直後、彼は息も絶え絶えになりながら、大口を開けて何かを吐き出した。
そこには地図が載っている。さらには、儀式の方法も軽く書かれているようだ。
「タ……タイラン……様、ばんざぁい」
男はそのまま生き絶えた。アトラスは地図を手に取ると、すぐに丘を降り始めた。
(おかしい。地図まで渡すのは出来すぎている。だが……)
罠の匂いがしようとも、ここまできたら引き返すつもりはなかった。




