繋がり始める糸
レオナは、暖かい薄闇の中で祈りを捧げていた。
彼女にとって、昨日の出来事は決して忘れられるものではない。神に祈りを捧げずにはいられない気分であった。
だから初めのうちは、小声で話している三人のことを気にしてはいなかったのだが。
「思っていたより深い傷だね。一体どうしたんだい」
「王子との遠征中にな」
「左手……すぐに全部治る」
何か暖かな光を感じ、彼女はふと瞳を開けた。少し前に立っていた男が、聖女から治癒の魔法を受けているようだ。
新緑色の輝きに癒されていく手には、切ったような跡がある。それが徐々に塞がっていく様子を、彼女ははじめぼんやりと眺めていた。
しかし、どっと心の奥に何かが響く。一緒だ、と頭の中で声がした。
(あの傷……あの位置……)
そんな視線に三人は気づかない。マーセラスは、アトラスがなぜか怪我した理由を隠していたので、どうしても知りたい衝動に駆られた。
「それは剣でやられたんだろ? もしかして仲間に切られたとか?」
「いや、それはない」
「じゃあ剣を持つ魔物かい?」
「なんでもいいだろ」
「気になるなー。僕としては、君にわずかでも傷を負わせる存在なんて信じられないからね」
すると、治癒を終えたリリカが、不思議そうに首を傾げる。
「アトラス。手の傷……もしかして自分でつけた?」
(こいつ。本当に勘が良いな)
思わず苦笑しそうになるが、アトラスは首を横に振る。
「さあな。とにかく、情けない怪我をした。それだけだ」
「やっぱり、自分で切ってる」
「ええー? どうしてそんなことを?」
この時、少し後ろで話を聞いていたレオナは、気がつけば立ち上がっていた。
「俺はまだ認めてないぞ」
「ううん。顔を見ればわかる。自分でしたのね」
「君のことがよく分からないよ。まあ、会った時からだけど」
「い……いつ!?」
そしてとうとう口を挟んでしまった。ハッとして彼女は後ずさる。不意に声をかけられた三人は、少々呆然とした顔になっていた。
「ご、ごめんなさい」
慌てたレオナは背を向けると、小走りで逃げるように去っていった。
(いつ……だと?)
アトラスは不自然な発言に、嫌な予感を覚える。
「レオナさん、急にどうしたんだろ」
「……」
リリカは無言でアトラスを見つめていた。
「どうした?」
「あの人、変だった」
「何かったのかもしれんな」
「もしかして、さっきの傷と……」
「それは違うな。ところで、昨日の話はしなくていいのか?」
あまりに勘の良い聖女である。アトラスは強引に話を変え、どうにかそれ以上の追求は抑えることができた。
しかし先ほど、聖女の無表情な顔がなぜか怒っているように映った。アトラスはそんな錯覚を覚えた自分が不思議でならない。
リリカとマーセラスは、一部始終を聴き終えると、打って変わって深刻な顔になっていた。
「やはりそう。星が……赤い星の輝きが増してる」
「まだあるってこと? 怖いなぁ」
聖女は静かに祈りを始める。すると周囲が暗くなり、星々の世界が照らし出されていった。
その中で、一際目立っているの赤き星。その輝きとうねるような動きが、より強くなっているのが分かる。
「不気味だな」
アトラスはその星を見て、何か歪な怪物が迫っているような予感がした。こうした予感は、前世でも感じたことがある。
祈りを終えたリリカは静かに立ち上がり、振り返って二人を見つめた。強い眼差しである。
「私は戦わなくてはいけない。でも、私だけでは無理。あなた達の協力が必要」
「もちろん、僕だったらいつでも大丈夫さ」
マーセラスは胸を張った。未だに記憶も、剣聖としての力も覚醒していないが、剣の腕はある。
アトラスも彼に同意だった。
「守護する約束というなら、守らないとな。それに、助っ人なら戦闘学科にもいるぞ」
またしてもノアの名前を出し、白きナイフを譲ることを企む彼だったが、リリカは乗ってこない。
ただ静かに、自らの手で二人に触れただけである。右手をアトラスに、左手をマーセラスに。
その小さな手は、微かに震えていた。彼女にとって、初めての大きな戦いが待っている。
彼女が背負っているものはあまりに大きい。恐らくはグロウアスを左右するほど凶悪な何かと、これから戦わなくてはならない。
二人の守護者は、どちらが先でもなく、その手を優しく握った。
◇
その後、二人と別れたアトラスは、学園の校門近くに来たある人物と話をすることになった。
「兄上、なんだかどんどん逞しくなっている気がします」
「まだ入学して少しか経っていない。で、どうした?」
弟、イルは制服が板についてきた兄に、何か感動しているようだ。
少しの間は軽い雑談をしていたのだが、やがて奇妙な話へと移ってゆく。
「この前、家族で演劇に行ったでしょう? あの時にいた派手な貴族の人、覚えていますか?」
「ああ、趣味の悪い成金だろう」
「あはは、そうです! タイランっていう名前ですよ。あの人のこと、気になって調べてみたんです。そうしたら……どうもおかしいんです」
(こいつ、探偵のようなことをしているのか)
あまり感心できないなと呆れつつ、とりあえず話を聞いてみることにする。
どうやらあのタイランという男は、この大陸ではどこを探しても素性が見つからなかったという。ところが、彼のことを知っている者が僅かにいた。
実はタイランという男は、グロウアスから船で四十日はかかるという、ゼグランド大陸よりやってきたというのだ。
「船で四十日もかけて演劇を観に来るって、流石にどうなのかと思うんですよ。しかもゼグランドでは、演劇もカジノも、ありとあらゆる娯楽に溢れているって話です」
「さあな。物好きなんじゃないか」
「僕には分かっています。あの人の魂胆が」
「ほう。なんだ」
この時、兄は弟の推理に期待した。いつの間にか凛々しくなったような気がする。
「レオナさんですよ」
「なに?」
「あの人は、レオナさんに惚れてるんです。そして、お金で頬を引っ叩いて引っ叩いて、自分のものにするつもりですよ。ああ許せない! 兄上、奴をどうにかするべきです」
アトラスは小さく嘆息した。弟は何かがずれたまま、良くない成長をしているような気がする。
「その心配はない。大丈夫だ」
「本当ですか。なぜそんな断言が……ハッ! まさか兄上、レオナさんまで」
「まで……とはどういう意味だ。とにかく、俺はそろそろ戻らねばならん。妙なことを考えてないで、当主として必要な知恵をつけろ」
弟は兄に怒られ少々慌てたが、少し嬉しくもあるようだった。
「また、そのような。でも素直に受け取っておきます。ありがとうございます。とにかく、あの男だけではないのですが、不穏なことがグロウアスに起こっているようです。お気をつけて」
「ああ、お前もな」
アトラスとイルは手を振って別れた。こんな気楽な貴族の兄弟などそうはいない。
弟の心配は当たっていた。事実グロウアスに嵐が迫っていることは確かである。
しかし、その凶暴すぎる嵐が二日後にやってくるなどとは、アトラス達には知りようがなかった。




