左手の治療
真夜中の宮殿に、男の足音が響く。
早い足取りには苛立ちが感じられた。しかし、待ち受けていた髭の男は、そのような機微に疎い。
彼が辿り着くなり、髭の男は足速に駆け寄った。
「おお! タイラン様、この度は」
しかし最後まで挨拶を終えることはできない。出会うなり思いきり殴りつけられ、床に倒されてしまったのである。
「う……」
「貴様……なぜ私に嘘をついた?」
「う、嘘ですと?」
何のことかさっぱりである。しかしタイランの目は本気であり、かつてない怒りが滲んでいることに、今更ながらに気づいた。
「取るに足らん存在しかおらんと、私にそうほざいたな?」
「は……はい……それは、」
「今日の騒ぎを見たか! とんでもない奴が隠れていたぞ。貴様はどこまで阿呆なのだ! 一体何匹の魔物を無駄にしたと思っている!」
怒りのあまり、タイランはとうとう腰に下げていた剣を抜いてしまう。突然の出来事に驚愕した髭の男は、腰を抜かしてしまった。
「お、おやめを! 確かにあのような者がいることは想定外でした。し、し、しかし!」
「お待ちくだされ、我らが主よ」
タイランが憤怒の形相で剣を突きつけた時、宮殿の広間に重々しい声が響いた。すると広間のそれぞれ角にある三本の蝋燭に火が灯る。
ローブ姿の影が三つ浮かび上がると、主は彼らにも殺気を向けた。
「あれは何の真似だ? 納得のゆく説明をしてもらうぞ」
「釈明のしようもございません。全てはあの愚か者が、身の程知らずにも単独で動こうとしたことによるもの。しかしながら、貴方様の希望はまさに、後一手でございまするぞ」
「何が一手なものか。どれほどグロウアスの田舎者を警戒させたか、お前らは分かっていない。恐らくはしばらくの間、王都はもちろん周辺部も全て、警戒を強めるに違いない」
老人の声に反発する彼の言葉には、どこか焦りすら感じられる。
「あの黒き剣士……我らが注意を払う価値があるのは、あやつのみでしょう。他は烏合の衆。ここまで中心に入り込んだ貴方様なら、どうとでもなります故」
「その黒き剣士が問題だ。奴はいつ、どこに現れるか分からぬのだぞ。肝心の儀式が始まった時にやってきたらどうする? 私が神になる前に、切り捨てられるようなことがあれば……」
あの頃と全く同じ結果になる……とタイランは心の中で言葉を加えた。
実は彼もまた転生者である。
アトラスと同じく天使と出会い、そして転生することになった。天使は神になりたいという自らの願望を笑うようなことはせず、叶う可能性がある世界に送ってあげると約束された。
初めは半信半疑。かつ前世で殺された恨みで身を焼きそうになる程であった。しかし、調べるほどに前世とこの世界の仕組みが共通していることに気づいた。
さらに驚いたのは、前世で自らが手にしていた力——魔物を洗脳する力——を現世でも使うことができること。
生まれは男爵家であり、父は王になる野心を持ったまま死んでいった。すぐに後を継ぐことにはなったが、彼にとっては家ですらただの道具である。
自らが神になるため、これまで多くの謀略を用いて富を奪い、人を殺し、血塗られた手で神になるための準備を進めてきた。
あまりに長い道のりであり、前世の頃からを考えれば途方もない時間になる。
(それを、それを……またあの男が阻むか! ええい、忌々しい!)
「ご安心なされよタイラン様。良い策がございます。いかに名うての剣士といえど、赤子同然となるほどの」
老人の声は自身に満ちている。噴出する殺気を押し留め、タイランは静かに顎をしゃくった。
「聞いてやる。しかし、つまらぬ策なら今度こそ容赦はせぬぞ」
◇
グロウアス国全てが震撼するほどの騒ぎが、ようやく一段落した。
戦いの後、元の姿に戻ったアトラスは帰還した騎士達にことの次第を説明し、今回の役目を終えた。王子はさらに厚い警護に囲まれ、どこにいるかすら分からない。
当然祝いの式も中止になり、街は騒然とするばかりだ。避難所に向かうと、ノアに抱きつかれたので驚く彼だったが、子供とはこういうものかと勝手に納得をする。
学園に戻った頃にはすっかり日が暮れていた。
その日、王子は寮には帰ってこなかった。犯人が倒されたとはいえ、暗殺を狙っている者が他にいないとは限らない。当然の警戒だろうとアトラスは納得する。
(このまま寮生活をやめてもらっても、構わないのだが)
むしろ一人の部屋になり、彼にとっては非常に居心地が良いものに変わっている。
そして次の日になり、教室に入るとやはり事件の話で持ちきりであった。
リリカとマーセラスは早速アトラスの元へと集まり、何があったのかを聞こうとしたのだが、他の生徒も集まってくるので後にすることになった。
「怪我をしてる?」
「ああ、これか。大したことじゃない」
「だめ。放課後、教会に来て。治療と一緒にお話しする」
聖女は彼の左手を心配そうに見つめている。
(大した怪我じゃないんだが。この世界は、みんな大袈裟だな)
嘆息しつつも、彼は聖女に従った。全ての授業を終え、三人は教会に向かう。
厳かな場所には、大抵の場合はシスターと生徒が一、二名いるばかりだったが、今日は違った。
「あれ? 珍しいね。レオナさんがいる」
祈りを捧げる金髪の少女に気づいたのはマーセラスだった。確かに、彼女がこの場にいることは珍しいことである。
レオナは一心に何かを祈っているようだった。その姿は真剣そのもので、決して邪魔になってはならないと、三人は静かに側を通り過ぎる。
祭壇の近くまで来るとリリカは振り返り、優しくアトラスの左手に触れた。
「包帯を外して。治癒をする」
 




