完全な闇
続いてはアトラスとノアの話だが、こちらも少しだけ遡る必要がある。
黒いローブ姿の男が正体を現した後、アトラスはまたも大急ぎで動かなくてはいけなくなった。
まずはノアを安全なところに避難させることである。
「どうして? 俺も戦う!」
と気丈に反対されたものの、明らかに相性が悪い相手であることは間違いない。
多少ではあるが強引に引っ張り、民が緊急避難している所まで連れて行った。
「お前のように接近戦を得意とする者に、あいつは厳しい。ここにいろ」
「でも!」
「いるんだ。お前に万が一のことがあってはならない」
「……アトラスは?」
「少しだけ、手伝ってくる。すぐに戻る」
「本当?」
「俺は約束を守っているだろ」
このような問答の時間すらも惜しかったが、ノアに暴走されるほうが厄介である。
彼は充分に彼女を宥め、避難所に連れて行った後、こっそりと先ほどの場所へと戻る。
どうやら騎士達が一斉に攻撃を開始したらしい。アトラスが事前に察知したとおり、魔力の種類から毒を持っていることは間違いなかった。
(このまま出ていくか。それとも……)
今は誰にも見られていない路地裏だ。彼はこの後駆けつけて戦うことを考えてはいたが、どうにも気持ちが乗らない。
(今日の俺は、あまりに目立ちすぎている)
この後に及んでも彼は、自らの平凡な人生を捨てたくなかった。しかし、自分が出ていかなければ被害は増えてしまうだろう。
相手は普通ではない。恐らくは相当の手練れである。紫色に変色している体は、長きに渡る禁術の修行により手にした変異体。魔力は桁外れに高いものを持っているはず。
これらの知識は魔法学科で習ったものであった。
(ぼーっとしていたことがほとんどだが、意外と覚えていたな。さて、どうするか)
数秒ほど考えていると、今度は白い甲冑を纏った誰かが、怪人に戦いを挑む姿が見えた。
(あれはそこそこやるようだが、まずいな。……鎧? そうか)
この時、彼はしばらく忘れていた前世の相棒を思い出していた。そして、思い出すなりすぐに召喚の言葉を口にする。
「いでよ、デモンズアーマー……ヘルサーベル」
その小さな呟きを、まるで天が見逃さなかったとばかりに、空に雷雲が立ち込め、一瞬にして黒き落雷が路地裏を襲った。
赤くゆらめく詠唱文字と共に、それは確かに届けられた。黒い甲冑に包まれ、右手には赤いサーベルがある。
(この姿を現世で知っている者は、弟くらいだ。つまり、この場で正体はバレない)
長い戦乱の時を戦い抜いた、地獄の象徴とも言える騎士の姿であった。
◇
話は現在に戻る。
激しい魔法と矢の攻撃が続き、広場には大きな煙ば舞い上がっていた。決して視界が良好とは言えないなか、アトラスと怪人は見つめあっている。
「んん? 誰だよ、俺の邪魔をする奴は?」
「……」
姿を隠しているからといって、アトラスは声を出したくない。知人が近くにいたらバレるかもしれない、という懸念があった。
「誰だって、俺が聞いてるんだろうが!」
しかし、この場を混乱に陥れた張本人は、僅かな沈黙すら我慢ならない。今度は四方八方より矢を召喚して、見境なく放った。
だが、それらの矢は周囲を狙ったものではなく、ただ一人黒き鎧の男を貫くつもりである。
(近くで見ると、こんなものか)
狙われた本人は、兜の奥で淡々としていた。必要最小限の動きで矢を一本一本切り落としながら、ただ前へと歩く。
自らが渾身の勢いで放った矢を軽々と落とされ、怪人の瞳が驚きに染まっていった。全てが変則的になるように放ったのに、軽く見切られている。
「な、なんなんだ。お前……」
しかし、アトラスは相手の反応より気になることがあった。
(左腕の部分がまだなかったか)
前世の彼は、戦乱のなか右目と左腕を失っている。その後に手にした鎧は、左腕部分だけがなかった。
その名残を目にして、まだ鎧が本調子ではない可能性に気づていた。静かに左手を上げ、右手に持った剣で軽く傷をつける。
切れた左手のひらから血が流れ、軽く鎧の肩付近に振りかけてみる。変化はすぐに訪れてた。
鎧がまるで血を飲みすすったような動きを見せ、赤黒い光を纏って左腕全体を包んでいく。
前世では見られなかった完全な形となったデモンズアーマーは、赤と黒の咆哮の如き雷を全身にたぎらせた。
尋常ではない圧力に、紫の怪人は血の気が引いた。遠間からこの光景を眺めていたレオナは、我を忘れて立ち上がっている。
「こ、こ、この——」
それでも矢を召喚しようとした時、彼の腕から先が唐突に消えた。赤く長い光が、太い両腕をあっさりと切り離したのだ。
「ああああー!」
怪人の絶叫が響く。その声に驚いた誰かが、またしても魔法を放ち、周囲に爆炎が舞った。
恐らく騎士達の中にも混乱している者がおり、止めるものと包囲する者、救援を呼ぶ者で混乱しているのだろう。
だからこそ、アトラスはすぐにケリをつけることにした。怪人の前に立ち、彼を見下ろしながら小さく呟く。
「誰に命令された?」
「……は、は……」
男は半分正気を失っているようにも見えた。そして体から毒ガスを今もなお放出している。
アトラスは静かに、左手を男に向ける。すると、男を包んでいる魔力が徐々に、確実に抜き取られていった。
漆黒の魔力が、あらゆる魔力を塗りつぶすように吸収していく。
「ん……んぐう!?」
男が悶絶し出した。紫の体色はすでになくなっており、魔力が残りわずかまで減っている。
魔力によって、自分にだけは効果がないように放っていた毒魔法が、あろうことが今自らに襲いかかっている。
「このままでは死ぬぞ。誰に命令された?」
今回の事件の首謀者は、必ず特定する必要がある。この男が独断でやっているとは思えない。
そう考えたアトラスは、どうしても彼に事実を吐かせたかった。しかし、男は結局のところ、最後まで意地を見せる。
驚いたことに、消え掛かった最後のガスを、自ら口の中に飲み込んだのである。
(命の危険があれば吐くと思ったが、意外だな)
男が痙攣しながら死を待っていた時、ようやく煙は全て晴れていった。
ようやく騎士達の包囲網や、万全な準備が整ったところではあったが、それらもすで無意味である。
レオナはハッとして周囲を見渡す。いつの間にか漆黒の剣士が消えている。探し出そうと歩き回り、しばらくはその場を離れなかった。
さらにこの時、アトラスの姿に驚愕を覚えた者がもう一人いる。
「馬鹿な……」
カフェのテラス席付近から場を眺めていたタイランだ。
手すりが潰れるのではないかと思うほど、力強く握り締めながら、一部始終を鬼のような形相で観察していた。




