圧倒
男は近づくほどに、その禍々しい顔をさらに歪めて笑う。
魔力の感じからすれば、獲物は大した相手ではなかった。しかも、彼の感知した魔力は一つ。もう一人の存在には気づいていない。
「そこにいるんだろ? 分かってんだぜえこちとらはよぉ」
薄暗い視界の中で、男は擬態を捨てて本来の姿に戻っていた。魚の顔と鱗を持っているが、二本足で歩いている。
しかも右手には鋭利な槍を所持していた。
(マーマン……か。この世界にもいるのだな)
アトラスはイルを抱き寄せて岩に隠れつつ、その姿を観察していた。
「おうおう! ようやく魔力を抑え始めたみたいだなぁ。もう遅えけどよ」
一歩一歩、マーマンは岩へと近づく。鼻息がはっきりと兄弟の耳に聞こえている。
「……む……ぐ……!」
(静かにしろ。大丈夫だ)
この状況においても、兄は動じていない。逆に弟はパニック状態である。
「なあ、いつまでも隠れてんじゃ——ねえよ!」
痺れを切らしたかのように、獰猛な魔物は岩の裏側へと回り込んだ。
「……あん?」
しかし、そこには誰もいない。さらには感じていたはずの魔力がなくなっている。
「んん? おかしいな。あれ?」
マーマンは目を白黒させて、岩の辺りを調べ始めたが、特に何も見つからない。はっきりと魔力を感じていたはずなのに、これはどうしたことか。
彼は戸惑いつつも周囲を見渡し、結局何もなかったと自身を納得させた。
「気のせいかよ。俺もどうかしてんなぁ」
だが、気のせいではなかった。実際のところ、アトラスはすぐ近くにいたのである。
マーマンが回り込んだのとは逆方向に、気を失ったイルを抱えたまま移動していたに過ぎない。
イルが気絶したのも、実はアトラスの力によるものだった。彼だけが持つ黒き力は、魔力を吸い取ることができる。だから前世では魔力切れを気にする必要がなかった。
吸い続けて一時的に弟の魔力がなくなったことで、ギリギリのところで隠れることに成功していた。
「ちょっとあんた。いつまで待たせんの。すぐここを出るんだよ。早くこいつを献上しなきゃ、どこで横取りされるか分からないんだよ」
「落ち着けよ。お前はそうやっていつも焦る。俺たちみたいに海を好きに動ける連中なんて、そうはいないさ」
喋りながらマーマンは通路の奥へと戻っていく。アトラスは静かに、二人の会話を聞きながら考えていた。
(随分と急いでるな。このままでは島から逃げられてしまう)
このまま大人達の救助を待っていたら、マーセラスがむざむざ攫われてしまう。その可能性を危惧したアトラスは、イルを岩の近くに寝かせたまま、静かに後をつけた。
そして目にした光景を見て、思わず顔を顰めてしまう。若い男女の遺体が転がっていた。
「……ん!?」
すると、マーマンがもう一度こちらを振り返った。男は過剰に音に敏感になっている。余裕を見せてはいるが、内心では緊張と恐怖に包まれている。
「何やってんの?」
「いや、確かに今、誰かの気配が」
「んなことは気のせいよ! ここがそう易々と見つかるわけないでしょう」
「まあ、それもそうか」
魔物はもう一度背を向けて、女の元へと向かった。もう一度アトラスが静かに尾行していくと、突き当たりに大きな水路があり、小舟が置かれている。
船の上には腕を縛られ、転がされていたマーセラスがいる。彼は気絶していた。
もう一人、妙齢の女が片足を組んで船の上に座っている。彼女もまたマーマンだが、長い紫髪と顔そのものは人間に近く、擬態が解けてもさほど大きな違いはなかった。
「さっさと乗ってよ。この島の人間にもバレそうだし、他の魔族だって、そろそろ気づくよ」
「ああ、大丈夫だ。もう出るさ」
(奴らが見つけた水路……なのか。こんな船で長旅ができるとは思えんが)
しかし、相手は海を知り尽くした魔物である。目的の場所もそう遠くはないのかもしれない。
(いずれにしても、このまま逃げられたらまずい。やるしかないな)
そう決断した彼は、腰に刺していた風切りの剣を抜いた。闇の中で静かに立ち上がり、半身で構える。
「あーあ。このガキ一人攫うのに、手間かかりすぎ。報酬はいくらなの」
「そりゃあ、ボスが血眼になって探すくらいだ。きっと金貨の山さ」
悠々と語りつつ、マーマンは小舟を繋ぐために、杭に巻きつけていたロープを外そうと手を伸ばした、その時だった。
ただならぬ風が、地下一帯に吹き荒れ、何かが壁に設置されていたランプを切り落とし、そのまま船の前方に飛んだ。
「うおえ!?」
「ひあ!」
二匹は突然の衝撃に驚き、一層暗くなった世界を見回す。
「だ、誰だ!」
男のマーマンが怒りを露わに、槍を持って応戦しようとした瞬間には、アトラスは彼の目前に迫っていた。
そしてすれ違いざまに、横腹をショートソードで深々と切り裂く。確実に急所をやられた魔物は、血を吐きながらうつ伏せに倒れた。
「すわ! 敵が!」
女マーマンは叫び、瞬時に氷の魔法を発動させる。しかし凍てつく吹雪は、彼に浴びせるには遅すぎた。
アトラスは倒した魔物を持ち上げ、盾にしてこれを防いだ。魔物が氷づけにされたところで、持っていた槍を奪い取り、振りかぶって投げつける。
もう一体の魔物の肩を槍が貫き、そのままの勢いで向かい側の壁に突き刺さった。




