落ちた先
治癒所にやってきた三人の前にあったのは、綺麗に整頓されたベッドだった。
やはりマーセラスはいない。青い顔になったリリカが、ベッドの脇を指差した。
「ここにまだある。微かだけど……」
魔力の残り香。それを辿ることができるのは、よほど腕の立つ魔導士くらいである。
「うーん。うーーーん!」
イルが必死に魔力を辿ろうとしているが、結果は見えていた。アトラスは瞳を閉じて、ただじっとしている。
「ダメだー。僕じゃ何も感じないよ」
「アトラス、あなたは?」
「……」
彼は返事をせず、静かに佇んでいる。イルは頭を抱えた。
「やっぱり人攫いだよね。っていうか、他にもそのお姉さんを見た人がいるんじゃないかな。探してみない?」
「……」
イルの提案も、なにかリリカは同意できないものがあった。彼女は聖協会の付き人にも手伝いを頼んでいるし、ロージアン家も島の管理所や、在中している憲兵に話までしていた。
だがそれでも今のところ、何も知らせが入ってきていない。目撃者がいるなら、そこに通報しているはずだ。
それだけではなかった。実は島の中でも数名、マーセラス以外にも行方不明者が出ているという。島全体が慌ただしい空気を纏い始めている。
大人ですら困惑しているのだから、子供達も手立てに困るのは当然だ。リリカとイルが悩み、新たな手立てを探している時だった。
「あった」
そう呟き、アトラスが歩き出した。
「え? お兄ちゃん、あったって何が?」
「……まさか」
弟と聖女は、普段よりも無表情な彼を追いかける。足取りの速さがいつもと異なり、少しでものんびりしていたら置いていかれそうなほどだった。
(なるほど。これはグロウアスで魔法店を見つけた感覚に近いな)
すでに消えかかっている奇妙な魔力の香り。それはかなり困難ではあったが、アトラスには感知できるものだった。
「ねえお兄ちゃ、」
「しっ! 集中してるから、話しかけないようにして」
リリカは興奮気味なイルを止め、気が散らないように配慮している。治癒所を出てからのアトラスは、徐々に島の中心にあたる場所へと進んでいた。
そこは鬱蒼とした森であり、子供の足では到着までに二時間もかかってしまう。ようやく辿り着いた森の中は、三人にとって未知の領域であった。
ふと、アトラスは用心のため腰に差していた風切りの剣を見つめる。
(どれほどの賊かは分からんが、いけるか? いや……)
彼は自分の考えを改め、二人に声をかけた。
「もうすぐだ。その前に一つ言っておきたい。もしマーセラスを攫った奴を見つけても、すぐには向かってはいけない。一旦はこっそり集落に戻ろう」
「え!? な、なんで?」
「俺たちが太刀打ちできない相手かもしれん。その場合、最悪殺されたり、人質にされることもある。見つけたら相手にバレないように引いて、父上や憲兵の詰め所に行こう」
自分たちはまだ子供。か弱い身で向かって行ってもやられるだけ。兄の発言に、弟はすぐに頷いた。
「分かった! お兄ちゃんが言うなら、僕そうするね」
「信頼しているのね。お兄さんを」
「うん! 僕のお兄ちゃんは凄いんだ!」
(イルときたら、やたらと買い被っているな。中身はおっさんなのだから、むしろもう少し行動できるべきなのに)
兄は弟の厚い信頼に嘆息しつつ、魔力を探し続けた。
「あ! もしかして」
「近い……」
ここでイルとリリカも気づいた。高い魔力が、この近くに存在している。しかも二つも。
「ここの筈だが」
森の中に開けた草原がある。アトラスは茂みに隠れつつ、周囲を注意深く経過していた。
左右を見回しても、上を見上げても、魔力の持ち主は見当たらない。しかし、探すほどに魔力の高まりを感じる。
だが、ここにきてゆっくりと探すうちに、何か奇妙なことが起こっているのが分かった。
草原から離れるほど魔力も小さく感じ、近づくほどに高まる。しかし、周囲には誰もいない。
「この辺りのはずだが」
「何か変ね」
「あれかなー。魔法店の時みたいに、幻術——うわぁ!」
突然叫び声がして、アトラスは咄嗟に振り向いた。すると、草原の一部に穴が空き、イルが落下してしまったようだ。
「イル! リリカ、大人を呼んできてくれ」
「わ、分かった。でも、あなたは?」
「イルを助ける」
「でも」
「心配いらない。頼んだぞ」
「あ、待っ——」
呼び止めようとしたリリカの声は届かなかった。アトラスがすぐに真っ暗な穴の中へと身を踊らせたからだ。
「い、急がないと」
リリカはすぐに駆け出した。
誰にも気付きようがないことであったが、これらの出来事は、瓜二つであるゲーム世界で必ず起こることだった。
しかし、既に運命は変わっている。本来ならば穴に落ちてしまうのはリリカであり、ロージアンの兄弟は同行していない。
アトラスは転生者だが、ゲーム世界のストーリーを知らない。だからこそ、彼の行動には躊躇がなかった。
穴に落ちてみると、実際のところはそこまで深くなかったらしく、特に苦も無く着地することができた。
だが、それは兄の強靭な体だからであって、弟も同様と言うわけにはいかなった。
「イル、大丈夫か。イル」
「う、ううう」
穴に落ちてすぐのところで、イルは苦しそうにうずくまっていた。どうやら足を挫いてしまったらしい。
地下通路のようなそこは、まっすぐな一本道だった。凹凸が激しく、大きな岩もあり、通り道としては不便に感じられる。
そんな真っ暗な道の向こうに、オレンジ色の灯りが見えた。魔力もどうやらそこから発せられている。
「足が痛い。ここ、でこぼこしてる」
「帰ったら聖女に治してもらおう。それまでは我慢しろよ」
この時、アトラスはすぐに弟を抱えて穴を這い上がるつもりだった。
万が一マーセラスの件ではなかったとしても、明らかに隠れ住んでいる怪しい連中がいるのだから、通報したところで何もおかしくはない。
「誰だ! そこにいやがるのは!」
しかし、灯りの向こうから響いた叫び声が、彼の動きを阻む。
「魔力をビンビンに感じるぜえ。よくもまあ嗅ぎつけてきやがったなぁ。お前、人間だな」
アトラスは岩の影に弟を隠し、自らもまたそこに隠れた。
先ほどまでは誰しもが魔力を抑えながら探索していたが、イルは突然の落下と痛みで、魔力を隠すことを忘れてしまった。
「おいおい。どういうつもりか知らねえがよ。そこに隠れてるよなぁ? 出てこいよ、なあ? 来ないなら、俺から行くぜえ」
男の声が、徐々にこちらに近づいてくるのが分かる。
イルはハッとして、焦りのあまり魔力の隠し方を忘れてしまっていた。こうなるとすぐに隠すのは難しい。
兄弟が隠れた岩の近くに、それは悠然と迫ってきていた。




