行方知れず
「あら、ここに例の男の子がいるのね」
「浜で一人倒れていたらしいが、記憶喪失とはな。それにしても謎ばかりではないか」
治癒所には昨日顔を出した兄弟に加え、今日は両親もお見舞いに来ている。
マーセラスは四人が来るなり、小さく頭を下げた。今日もリリカが隣にいる。
「体はすっかり良くなった。ありがとう、みんなのおかげだよ」
「やっぱり聖女さまの魔法だよね! 僕も回復魔法覚えたいんだ。魔導書欲しいなぁ」
呑気な顔で次に欲しい魔法を思い浮かべるイルだが、リリカは首を横に振る。
「回復魔法は、魔導書では覚えられない。……信仰と祈りで与えられるもの」
「しんこうといのり?」
魔法には数多の種類が存在し、素質が伴えば魔導書で覚えることができる。しかし、聖女が覚えている聖魔法は、魔導書で伝えられているわけではなく、神から力を授かるのである。
まだ弟には理解し難い話だと思い、アトラスは苦笑していたが、こういった部分も前世の世界と似ていることに気づいた。
「とにかくマーセラスとやら。ワシはロージアンのシェイドだ。何か困ったことがあったら、うちに尋ねてきなさい。あと二週間はここにいるから」
「ありがとうございます」
記憶を失ったマーセラスにとって、貴族というものはより分かりにくい存在だったが、人柄の良いおじさんという印象は持ったようだ。
その後、たわいもない雑談を済ませた後、一家は海水浴に行くため治癒所を出て行った。
リリカもまた椅子から立ち上がり、少年に微笑を向ける。
「私も、そろそろ行く。今日は教会の立ち上げに、参加しないといけないから」
彼女がこの島にやってきた理由の一つが、グロウアス聖教会をラーナ島に設立するための、大使的な役割をすることであった。
かねてから聖教会の大神父達は、この島での普及を目指していたが、島の他教会の反対により頓挫している。
だが、リリカはどの信教からも支持されている、極めて珍しい存在だ。彼女を連れていくことで、教会はこの島で活動を広げることを狙っていた。
聖女はその意思に逆らうことはなかった。主である神の教えを広めることは、彼女にとっても重要なことである。
「分かった。いろいろとありがとう」
「これからどうするの?」
「ここで暮らす方法を探すよ。何処に行ったって、今のままじゃ何もできないし」
「また来る……じゃあね」
そう呟くように残して去っていく小さな後ろ姿を、マーセラスはただ見つめていた。
まだ小さく、何もできないはずの少年。いずれは剣聖として世界中を旅する運命を持つ彼は、この時は何の目的も思い出してはいなかった。
しかし、彼をこのままにするつもりがない者が、島にはいる。
「マーセラス君、お見舞いが来たわよ」
治癒所員が連れてきたのは、一人の女性だった。
「やっと見つけたわ。私の可愛い坊や」
マーセラスはその女性に連れられ、治癒所を出ていくことになった。
◇
「海だ! 海だぁあああ!」
「昨日も散々見ただろう。まったく」
水着姿になったイルとアトラスは、海で遊び回っていた。ただバシャバシャと泳ぎ回り、水遊びをするだけでイルは大喜びだ。
しかし、アトラスもまた、意外にもこうした遊びが楽しいことを知り驚いていた。
前々世では海で遊ぶなど皆無だったし、前世での海はあまりにも危険過ぎた。両親はパラソルの下、優雅に椅子に寝て夏を堪能している。
(夏の海って楽しいものなんだな。しかし……)
少年はちらりと、周囲で同じように楽しむ大人達に目をやった。男はともかくとして、若い女の水着姿がやけに気になってしまう。
(いかんな。こんな煩悩まみれでは、この先どうなってしまうのか)
彼が将来的に求めているのは、ただ静かで楽な暮らしであった。もし当主ではないとはいえ、女にうつつを抜かすようになったら、きっと平穏ではなくなるだろう。
「お兄ちゃん、さっきからなんで水着の女の人見てるの?」
「いや、なんでもない。水着の柄が珍しいなと思っただけだ」
苦しい、我ながらなんという言い訳だろうと、彼は内心恥ずかしさが止まらなくなった。
しかしその後は普通に遊び、砂地でも遊んだりしているうちに時間が流れ、いつの間にか夕陽が海面を美しく照らす時間になった。
水着姿だったロージアン家も私服に着替え、ようやく帰ろうかというところで、アトラスは慌ててこちらに駆けてくる少女を見つけた。
「ん? リリカじゃないか」
「え、あ、ホントだ。お姉ちゃん、どしたの?」
「……マーセラスが、いなくなった。何処にもいない」
「え!?」
イルが驚いて叫んだ。両親も狐につままれたような顔になっていた。
「母親だっていう人が連れて行ったらしいの。凄く強引な引っ張り方で。でも、調べてみたら誰も知らない人だった。島の人じゃないし、この前の船にも乗ってない」
珍しくリリカは動揺している。イルはまさか、と狼狽えた。
「人攫いとか!? どうしよう、もう連れ出されちゃったのかな」
誘拐して奴隷として売り飛ばす、という行為はこの世界では、全般的に禁止されている大罪であった。奴隷という存在を得ることも、この世界では許されていない。
もっとも、魔物の脅威が広がり始めている今では、隠れて売り飛ばすという行為が危険性との天秤に合わないため、行う者はほとんど存在しない。
しかし、絶対にそういった行為を働く者がいないかといえば、決して断言はできなかった。
「今日は船は出ておらんのだろう。知らせを出し、まずは出口を塞ぐことにしよう。お前達は安心しなさい。ワシがなんとかしよう」
こういった悪事の匂いを、父シェイドは決して良しとはせず、真っ先に行動に移った。良い父親だなと、改めてアトラスは思う。
「父上が動いてくれるなら、安心できます。そういうことだから、リリカ。俺たちは大人しく待つとしよう」
「……でも」
「あそこで話そう」
アトラスは珍しく小声で伝えた。イルも兄に従い、両親が港の管理所に連絡している間、浜辺の長椅子に並んで座っていた。
「変だよね。島の誰も知らない、観光船にも乗ってなかった人が、急に出てくるなんて。もしかして一緒に海から流れ着いたのかな」
「それはないだろうな。リリカ、何か他に手がかりはないのか」
焦りと不安で俯いている少女は、ボソボソと呟く。
「……あるとしたら、魔力。魔力の名残が残っていた。でも、あんなに微かじゃ追えない」
魔力は現在発せられているものだけではなく、発生してしばらくのものも感知することができるが、一日もすれば影も形もなくなってしまう。
しかし、それができるのは相当な力の持ち主でなければ不可能であった。
「行ってみるか。分かるかもしれないぞ」
「でも……」
「そっか! 一人で無理でも、三人で魔力を調べたらいけるかもね。さっすがお兄ちゃん!」
アトラス達は、マーセラスがいなくなった治癒所にもう一度向かった。そこには確かに、歪な魔力の残り香があったのである。




