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愛してる

 魔族達の王は、先ほどまで意識を失っていたような少女が、急激に心を取り戻す様に軽い衝撃を覚えていた。


 そして同時に、言いようのない興奮も感じていた。絶望に浸った者が希望を取り戻したなら、これは恐怖を感じるに違いないから。


「な、なんで。どうしてここに」


 彼女の声は震えていた。


「こ、殺せ! 我らが王の儀式を邪魔しおってからに。毛ほども残してやるな!」


 猿の顔を持つ悪魔が叫ぶ。王はその行いを良しとし、別に止めるつもりもなかった。


 漆黒の鎧に包まれた体に、何十という巨体が群がる。ここは世界を埋め尽くすほど数を増している魔物達の本拠地。敵はいくらでも湧いてくる。


 並の人間なら五秒としないうちに捕まり、全身を八つ裂きにされていたに違いない。


 だが、ここまで単身で乗り込んできた男は違った。赤い魔剣が翻るたび、何匹かが死体に変わる。


 男は縦横無尽に飛び回りながら、ある時は対象を吹き飛ばし、ある時は切り殺し、ある時は蹴り殺した。


「ほう。人間如きが、これほどの力を手にするとは」


 王は感心していた。まるで殺し合いとは無関係の世界に生きているかのような、一観客のような一言だった。


 まだ、男は魔法陣に近づけずにいる。おおよそ五十メートルほどしかない距離が、あまりにも遠い。


 倒しても倒しても、魔物はむしろ数を増やして屋上にやってくる。ここは悪魔の楽園だ。


 少女はこの地がどれほど希望を持てない場所かを知っていた。


「い、いや! 逃げて、逃げて!」

「おや、お前はあの男がそんなに大切なのか」


 怒号と絶叫が響き渡る屋上で、王は少女に問いかける。彼女の瞳からは宝石のように輝く雫が流れていた。


「このままでは決して助かるまいな。ここでは魔族は生まれ放題。奴の体にもじきに限界がこよう」

「そ……そんな……そんなの」


 王は彼女の耳元で静かに囁く。


「助けてほしいのか、あの男を。我の一言で、魔物達は殺しを止めるであろう。なあ娘、助けてほしいか?」


 それはただの遊び心だった。少女はようやくまともな思考を取り戻し、目前で起こる悲劇に恐怖している。


 この女に懇願させ、さも聞き入れた風を装った後、無惨に男を殺してやったならどうなる?


「お願い、です。私、なんでもしますから」

「ほう。つまり生贄になるのも構わぬと、そう申すか」

「はい」


 王は少女が即答したことに、内心驚いていた。自らの命をこうもあっさり捨てようというのか。


 先ほどまでの喜びは消え、彼の瞳には苛立ちが宿っている。


「お前のそれは愛というものか。どういう関係かは知らぬ。知りたいとも思わぬが、愛などというのはただの幻——」


 この時、前方で繰り広げられていた殺し合いに、明確に変化が訪れた。


 赤い魔剣が長く大きく育ち、群がる魔物達を瞬時に切り飛ばす。何かが王のすぐ横を通り過ぎた。


 王の美しき頬と耳から血が吹き出している。


 この僅かな瞬間、訪れた好機を逃すことなく、男はようやく魔物の囲いから抜けた。魔法陣へと歩み寄ってきた彼を、王は笑顔で迎える。


「強き者よ。まさかたった一人の男が、これほどの力を見せつけるとはな」

「……」

「目的は我を殺すことか。それとも、この娘か」

「娘だ」

「なるほどなぁ……しかしよく見よ。お前が探していた姫は、このような髪か? このような耳か? 無駄骨どころではなく、痛恨の失態であろう」


 男は一気に距離を詰めようとはしない。静かに歩みを続けている。背後から迫りくるいくつもの人外が、見えない剣撃に切り裂かれていった。


 少女は男から目を離せなかった。そして、悲しみで歯を食いしばった後、ただ声が漏れた。


「ごめんなさい……私が、ただの偽者で……」

「違う」


 この時、黒い甲冑に夥しい返り血を浴びた男は、力強く否定した。


「イレイナ。俺はお前だから、ここに来たのだ」


 この時、イレイナと呼ばれた少女は、まるで時が止まったかのように動かなかった。


 思いがけない一言。かけられるはずのない言葉に、理解が追いつかない。


 少女と男は、もうすぐ触れ合う距離まで迫ろうとしていた。しかし、ここで王が間に入り、彼女の首筋にナイフを当ててみせる。


「動くな。この女の命は、我が握っているのだぞ」

「お前にはできぬ。イレイナを殺したなら、お前は絶対に神になどなれぬ」

「ほう。我が誇りを傷つけられてもなお、やらぬというか」


 いつの間にか王と男は向かい合っていた。


 先ほどまで狂ったように襲いかかっていた魔物達は、二人の周囲でまごつくばかり。彼らは万が一でも王に怪我をさせてはいけなかったし、とはいえこのままでいるわけにもいかない。


 迷いが生じた戦場で、ただ一人甲冑の男だけはするべきことを決めていた。男には分かっていた。王は躊躇っていると。


 自身がまったく予期せぬ窮地に陥り、あろうことか人質を取るという行為に走ってしまったことに、心の底では動揺しきっていた。


 そして今、間合いは甲冑の男が支配している。彼に必要なのは一瞬だった。王の集中が途切れる、ほんの一瞬。


 呼吸すら見えているようだった。彼は些細な隙を感じとり、ナイフを握る王の腕を瞬時に切り飛ばした。


 ◇


 それから先は、この世に現れた無限地獄であった。


 王はそのまま切り捨て、猿の悪魔は真っ二つに両断し、多くの魔物達を殺しながら逃げた。


 結果的に彼は魔族の王を倒し、主要幹部達もまとめて倒した。この成果により、人間達はその後も多くの血を流しながらも、魔物を退けることに成功するのだった。


 彼が王を倒すことがなければ、この世界にいる人間は滅びの道を辿るしかなかったであろう。しかし、彼はその結末を目にしていない。


 人を守りながらの逃走が、彼の運命を決めた。隻腕のため、少女を担ぐことで剣が使えなくなり、後はひたすら逃げるしかできなかった。


 容赦のない魔族の追跡が、終わりなく繰り広げられる。矢や投げ槍、魔法の類が嵐のように二人を襲った。


 少女は彼の腕の中で震えている。しかしその手は、決して男を離そうとしない。


 一体どれほどの時間が流れただろうか。いつしか二人は知らない丘の上にいて、魔物達の姿はなくなっている。


 夜が明け、眩い陽光が二人を照らしている。しかし、少女の顔に笑みはない。彼女を庇いながら逃走した男は、傷を負い過ぎてしまった。


 イレイナを降ろし、自らが倒れる間際に、天に向かって魔剣を放り投げた。赤い宝石のような剣身と、黄金の柄が輝きを放ちながら消えていく。


「どうして……」


 すでに力を失いかけている男は、細く白い腕の中で笑った。珍しい笑みに、少女は目を丸くする。


「どうしてかな。……お前だけには、死んでほしくなかった」


 言葉に力がなくなっている。そろそろ終わろうとしている。致し方ないことだと、彼は自らの死を割り切っていた。


 だが、イレイナは受け入れられない。子供のように泣いてしまう。


「俺の仲間は、みんな死んでしまった。ノエル、ヘルメス、ドルカス、シエナ……すまなかった。せめて、お前だけは、」

「喋っちゃダメ! 人を呼ぶから、きっと大丈夫! 大丈夫だから!」


 彼女は男の命が消えていくのを、認めることができない。


「歌は……歌って、ないのか」

「え?」

「聴きたかったな……お前の歌……」

「歌う、歌うよ! いくらだって、あなたの為に、だから」

「幸せに……な………」


 それが彼の最後の言葉だった。


 イレイナは泣き叫んだ。彼の笑顔を心に刻んだ。


 真っ暗な世界に落ちていく。全てが消えていく。自分が自分ではなくなっていく。


 永き旅立ちの闇の中で、たった一言、少女の声が響いた。


「愛してる」


 それは男の心に、これ以上ないほど爽やかに響いた。


 ◇


「……て! 起きてお兄ちゃん! 朝だよ!」

「ん……んん」


 小さな手に揺らされて、アトラスは目を覚ました。よく知っている天井だ。


「そろそろ起きないと、みんなに怒られちゃうよ。今日は大事な日なんだから」

「あれ? そうだったか」

「今日はパーティーでしょ! 早く早く」


 弟にぐいぐいと腕を引っ張られ、彼はあくびをしながらも起きた。


(またあの夢か。いや、過去の記憶……か)


 紛れもなく前世の記憶であり、思い出す度に考えてしまう。あの後、イレイナは幸せになれたのだろうか、と。


「待ってるから、早くきてね!」

「分かった」


 弟は両親に、自分が起きて準備をしていることを伝えにいった。とはいえメイド達が準備を完了させていたので、もう着替えるだけだったが。


 すぐに着替えを終えると、庭で立派な馬車が停まっているのが見えた。


(考えるのは後だ。早くしないとな)


 もう違う世界に生きている。彼女がどうなったのかを、知ることはきっとできない。


 馬車に乗り込んだアトラスは、考えても仕方ないことは考えないようにした。


 彼はもう全てが終わったと考えている。しかし、前世を断ち切れているわけではなかった。


 こうして夢を見る度、知らず知らずのうちに黒き力を取り戻している。


 それはあまりに、ありがた迷惑な話であった。

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