自信を失ってほんの少し自信を取り戻してもまた裏切られる。
私の好きな人は、私のことを好きになってはくれない。
婚約した最初の年、私達は十二歳だった。
婚約の意味は解っても、実感はなく、ただ親に仲良くしなさいと言われたので、仲良くしようと思った。
けれど私の婚約者は親に仲良くしなさいと言われてないのか、一緒に居るといつもそっぽを向いて、その店にいる女の子たちを眺めては私を見て、ため息をついた。
それほど見目は悪くないと思っていたのだけれど、毎回誰かと比べられて、ため息をつかれていると、自分に何の価値もないのだと思うしかなかった。
婚約して二年目になると、約束した日に約束した場所に二回に一度しか現れなくなった。
それが三度に一度になり、四度に一度になり、私は誘うことを諦めた。
私の婚約者はきっと町中ですれ違っても私のことに気づかないだろう。
正面から顔を見られたことなど数えるほどしかなかったから。
婚約して四年目になって婚約者からお誘いがかかったけれど、何も期待できない私は、会いたいと思わなかった。
お断りの手紙を返したのだけれど、それからは毎月お誘いの手紙が来た。
まだ自分に自信があった頃なら人前に出ることも考えられたけれど、今はもう、必要最低限の外出しかできない。
前髪を伸ばし、顔を見せないようにして、いつも俯いている私に誰が会いたいと思うだろうか?
次、ため息をつかれたら、心が壊れてしまうかもしれない。
父に婚約者と会っていないそうだなときつく叱られ、何も言い返すこともできず、ただ俯いて唇を噛んでいた。
誰とも会わずに自分の世界にいられる読書が私の唯一の楽しみだった。
図書館で原書を借り、辞書を借り、翻訳しながら読むのが好きだった。
原書を一冊、翻訳した時、発行元の出版社へと送ってみた。
私が送った翻訳が気に入ってもらえて、出版したいと言うことになって、我が家へとやって来てくれた。
父を交えて契約を交わし、同じ作者の新作ですと言われて、原書を渡された。
今度はこの本を翻訳して欲しいと頼まれ、私は喜んで引き受けた。
新作には、別の国の言葉が数行交じっていて、図書館へ辞書を借りに行った。
正面から婚約者が女の子と楽しそうに笑いながら歩いて来た。
女の子と一緒なことに傷つきながら、気がついてもらえるだろうかとドキドキした。
婚約者はちらりと私を見た。
ただそれだけだった。
やっぱり気がついてもらえなかった。
父に婚約を解消して欲しいと願い出た。
婚約者は私を見ても気が付かなかったからと。
父はどうして今のようになってしまったんだと、私に尋ねた。
私は婚約者と会う度に他の人と比べられてため息をつかれ、自分に自信が無くなってしまったのだと伝えた。
今まで交わした言葉はため息と、じゃぁ、しか言われたことがないのだとも伝えた。
私は婚約者が怖い。次に会ってため息をつかれたら死を選んでしまうかもしれない。
泣きながら父に訴えた。
翻訳の仕事が一生続けられるのか、今は解らないけど、なんとか一歩前へ進めた。
その事を大事にしたい。
父は解った。と言ってくれた。
婚約者から何度か手紙が来たけれど、読まずに返送した。
読む勇気は私にはもうなかった。
新作の翻訳が終わると、その作者の本を次から次へと渡された。
私は作者の感情を読み間違えないように丁寧に翻訳をした。
新版の辞書が発売され、私はそれを取り寄せて買った。
店員さんに前にも辞書を買われてましたよね?と聞かれて、小さな声で、はい。と答えた。
お仕事で使われているのですか?と聞かれ、それにもまた小さく、はい。と答えた。
お仕事は何をされているんですかと聞かれて、私は、色々ですと答えて逃げるようにして帰った。
私に声を掛けた店員は、婚約者だった。
父に婚約解消はどうなっているのかと聞くと、相手が婚約解消をしたがらないと言った。
一度会ってみたらどうか?と聞かれたが、会いたくはなかった。
今日、お会いしました。言葉も交わしましたが、婚約者だとは気が付きませんでした。
そう父に伝えた。
父は絶句して、握りこぶしを固くした。
父と婚約者とその父の三人で話し合って婚約解消は認められた。
ただ、この手紙だけは必ず読んで欲しいと手紙を渡された。
私はその手紙を返送もできず、読むこともできず、引き出しの奥に仕舞い込んだ。
十冊の本の翻訳が終わる頃、原作者と会わないか?と出版社の方に聞かれた。
凄くファンだったから会いたかった。
私でも会ってもいいだろうか?
出版社の方に会ってみたいです。と小さな声で伝えた。
出版社の方は、気楽でいいからね。言ったけれど、最低限はちゃんとしなくちゃいけないと思って、長い前髪を切って、衣装を久しぶりに新調した。
会えるまでにはまだ三ヶ月ある。
新作の発売に合わせてこの国に来るそうだ。
新作の本はもういただいていて、翻訳も後少しだ。
翻訳が完成して、出版社へと持ち込んだ。
出版社の方々も想像より早く仕上がったことに喜んでくれて、歓待してくれた。
髪を切ったから最初誰か解らなかったと言われ、凄く可愛いですね。とお世辞を言ってもらえた。
私は失っていた自信が髪の毛一本分くらいは戻ってきた気がした。
鏡に映る自分は、決してため息をつかせるような顔ではないと思った。
そう、思いたかった。
父が新しい婚約の話を持ってきた。
私は父に断ったけど、会うだけ会ってみなさいと言われ、髪が伸びたら・・・と答えたけど、翌週、身なりを整えられて、両親に引きずるように連れ出された。
現れたのは背が高くてがっしりしていて、とても男らしい人だった。
はにかんだ笑顔が可愛くて、好意を抱いた。
相手も私のことを気に入ってくれたらしく、まずはお付き合いからしてみませんかと手紙が来た。
翻訳の仕事をしているので、都合がつくときしか出かけられませんと言うと、では都合のつく日を教えてください。予定をすり合わせましょう。
私は浮かれてしまった。
その二週間後、原作者にお会いして、本にサインを貰い、私も翻訳した本にサインをして渡した。
原作者と握手して、楽しい食事をして、まるで前の婚約者に出会う前に戻ったような気がした。
いつもの本屋に行くと、私は新しい作者の原書を斜め読みして、面白そうだったので買うことにした。
入店の時に店員は元婚約者じゃないことを確認していた。
貴族の子息が何故本屋の店員なんかしていたのかはわからないままだけど、彼にさえ会わなければ、私は少しずつ自信を取り戻せるような気になっていった。
支払いに並ぶと、いつの間にか店員は元婚約者になっていて、私は慌てて本を戻して走って家に帰った。
浮かれていたバチが当たったんだ。
私はその日、過呼吸を起こして、治っても直ぐにぶり返し、酷く長く苦しんだ。
両親は私をそっとしてくれたが、何も知らない新しく出会った彼は予定をすり合わせようと言ってきた。
私は長い長い手紙を書いて、あなたに釣り合わないこと、まともな人生を歩めないことを伝えて、ごめんなさいと伝えた。
手紙を読んで直ぐなのだろう、新しい彼は手紙を握りしめたまま私の前に立っていた。
新しい彼の勢いに驚いて、言われるがまま、我が家で一緒にお茶を飲んでいた。
人の好みもあるので、人それぞれだと思いますが、私はあなたのことを美しいと思います。
あなたを見て、ため息をつくとしたら、それは美しいからです。
私はあなたを諦めたくはありません。
私の手を握りしめて力説してくれた。
おかしくて声を上げて笑った。
私と新しい婚約者は私が十九歳になる直前に結婚した。
旦那様は毎日私を愛していると言ってくれる。
心がこもっている時もあれば、ついでのように言うときもある。その愛を疑ったことはなかった。
妊娠して、切迫流産しかかって、私は出産まで入院をすることになってしまった。
不便をかけてごめんなさいと謝ると、旦那様は元気な子供を産むことだけを考えなさいと言ってくれた。
旦那様に申し訳ない気持ちで一杯で入院生活を送っていると、仕事が忙しくてと、お見舞いに来てくれるのが二日に一度になり、三日に一度になり、週に一度になった。
その週に一度来た日もなにか予定があるようで、五分ほどで帰っていってしまった。
覚えのある状態に、不安定になり、気にした母が父に言い、旦那様の身辺調査をしてしまった。
旦那様は私より三つ年上の女性の家に入り浸り、その女性も妊娠していることが判明した。
その父親が旦那様なのかは解らなかったけれど、旦那様は私の出産のときには病院に現れなかった。
通常より小さな子供が小さな箱の中で母乳を飲めたときにも居なかった。
私は子供より先に退院することになったけれど、旦那様の家には帰らなかった。
必要な荷物を実家へと運んでもらって、子供にも私一人で名前をつけた。
一度も顔を見せない旦那様は私が家に帰らなくても何も言わなかった。
子供がやっと退院できるようになり、私は子供を実家へと連れ帰った。
両親は私に何度もあんな男を選んですまなかったと謝った。
気にしないで。私は誰かに愛してもらえるような人間ではないんです。
そう言って、目を伏せた。
子供はすくすくと大きくなり、仕事も順調にこなせている。
弟にこのままここで暮らすつもりですか?と聞かれて、出ていきます。と答えるしかなかった。
出版社の近くで、子供と二人で暮らしていける部屋を探して、私は弟から言われてから一週間で引っ越しを決めた。
弟は、後から旦那様の家に帰らないのかという意味だったと言ったが、不出来な姉でごめんなさい。と謝った。
私はこの子と二人で、もう何処にも行くところはなくなってしまった。
私は積極的に翻訳に取り組み、子供を育てていけるだけ稼げるように頑張った。
本屋に原書を探しに行くと、元婚約者が居たが、もう気にならなかった。
原書を三冊選び、子供と一緒に支払いに並び、支払いをして本屋を出た。
元婚約者は気が付いたのか、気が付かなかったのか解らなかったけれど、声は掛けられなかった。
旦那様の彼女が女の子を産み、旦那様には似ても似つかない子供だったらしい。
旦那様は怒り狂って彼女に暴力を振るって、警察に捕まったらしい。
留置所に一泊しただけらしいけど、暴力を振るったことの民事の裁判を起こされ、旦那様も我が子と思わされて家庭を壊されたと彼女を民事で訴えたらしい。
どんな結果が出ても、私の知ったことではない。
私の産んだ子は私一人のものだ。
出産の届け出の時、父親不明で届け出を出したから、父親には何も権利がない。
私と子供は平民になってしまったけれど、私は満足だ。
子供には愛されるようにいっぱい愛して育てよう。
誰からも愛されるような子供に育てるんだ。
私のように誰からも愛されないような人間にしてはならない。
最後まで主人公は元婚約者からの手紙を読みませんでしたが、読んでいれば、主人公は愛されていたのだと気がついたかもしれません。
手紙の内容は、子供で、恥ずかしくて目を合わせられなかったこと、他の女の子と比べても主人公が可愛くて溜息が出てしまったこと、会うと恥ずかしいので、だんだん距離が開いてしまったこと、全く会わなくなって焦って会いたくて手紙を何度も出したことなどが書かれていました。
長い髪で顔を隠していた主人公に気がつけなくてごめん。
主人公さえ許してくれるのなら、一からやり直したい。
君が好きだ。
というようなことが書かれていました。
結婚した旦那様も主人公を愛していましたが、妊娠で触れられない隙を狙われてしまいました。
弟も、何の話し合いもしていない姉夫婦に話し合いをしてほしかっただけで、家から追い出したかったわけではありません。
私は主人公は皆から愛されていたけれど、ボタンの掛け違いでこうなってしまった残念な話になりました。