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05.棄てられ令嬢また戻る。

 



 天井が、遠い。


 寝起き一番、薄っすらと開けた視界越しで頭に浮かんできたのは、そんなどこにでもある感想でした。

 見慣れない場所のせいでしょうか、寝る時には気にならなかったのに今はやけに部屋が広く感じます。


 ぼんやりと頭にかかる靄。眠り目を擦りながら、私はベッドから降りようとしました。


「っ?!」


 が、そこにあるはずの地面が崖のように切り落とされていて、投げ出された足が空を切ります。

 落ちる。直感がそう囁き、咄嗟にベッドの淵にしがみつきました。

 けれど、シーツを掴む手はまるで五指が無くなってしまったかのように力が入らず……ほんとに指が無いんですけれど!

 指の代わりに丸々とした肉球が虚しく空気を叩き、膝丈の高さの崖から地面に真っ逆さま。


 高さが高さなので痛みもありませんでしたが、また背中から落ちるとは思いませんでした。

 私ほど猫の向いていない人類も珍しいんじゃないでしょうか。向いている人が居たら今すぐ教えて欲しいところですが。



 というわけで、再び真っ白毛玉に戻ってしまった私は、どうしたものかと途方に暮れている真っ最中です。

 窓から覗く空はキャンパスを煤で塗りつぶしたみたいに真っ黒のまま。これを見るに、眠りに落ちてからさほど時間も経っていないのでしょう。

 このままじっとしているよりは。そう思い立った私は、屋敷の散策へ出かけることにします。

 疲れで扉をきっちりと閉め忘れていたことが、今となっては幸いでした。






 自分の影が暗闇に混ざり合ってしまうような闇の中、その暗闇を物ともしない猫の視野で屋敷を練り歩く私。

 人の身でさえ広く感じたお屋敷が、今は地平線の見えない砂漠のように思えます。

 身長の何倍もある天井も、素足だとつるつる滑る石床も、初めは昼間と違う顔を覗かせる屋敷を楽しく散歩していたのですが、そのうち疲れが襲ってきました。


 地面に寝そべるのはまだ忌避感が勝るので、ぴょんと、手ごろな窓の淵へと飛び乗り身体を丸めます。


「にゃーう」


 私の部屋の物よりも二回り大きな窓からは、大小明暗様々な宝石を散りばめたような星空が良く見えました。

 眼下に広がる公爵家の庭も、そんな星たちの輝きを受けて神秘的に照らされています。

 厳かで整然としていて、疑うことの無い美しさを持つ庭は、だけど違う、と私に思わせました。


 自室の窓から見える星空が、好きだったのです。

 父が手ずから手入れしていた、こことは比べるべくもない小さな庭。

 それが星の光を浴びて、小さなステージみたいに輝くのが好きで、何時間も眺めて寝不足で怒られたこともあります。


 目の前に広がるそれが明確に違う物だと理解した時、そこで私は漸く、随分と遠いところに来たのだと実感しました。

 目頭に熱いものがこみ上げ、激動の中で忘れていた感情が鎌首をもたげます。


 熱が零れ落ちそうになった時、突如、身体がふわりと浮きました。


「こんなところに居たの」

「みゃ」


 私を持ち上げたリメリアさんが、毛が付くのも厭わずに私を腕の中にすっぽりと収めます。

 柔らかい寝巻がふわりと頬を撫で、続いて彼女が小脇に挟んでいた書類の束が頬を叩きました。


「夜はまだ冷えるから、私の部屋に居ると良い」


 星明かりに照らされた彼女の綺麗な横顔を間近で見ているせいか、胸が高鳴りを越えて痛みを訴えだします。

 運ばれていく中、うす水色の髪の隙間から見える、僅かに綻んだ口元がやけに印象に残りました。










「にゃ?」

「ごめんね。今日は仕事が先だから」



 リメリアさんは私をベッドの上に置くと、自身は机に紙束を広げてそちらに向かい合いました。


 カリカリとペンを走らせるリメリアさんの横で、邪魔をしないように彼女のことを見守ります。

 険のとれた顔つきは、やっぱり昼間と同一人物とは思えません。

 このリメリアさんと話してみたい。ぼんやりとそう思うのですが、この顔を見れること自体、やはり私が猫だからなのでしょう。


「にゃん……」

「退屈した? もう少しで終わるから待っててね」


 リメリアさんは仕上げとばかりに手早くペン先を動かすと、書き上げたそれらを一纏めにしました。

 トントンと紙束を整える内、その中の一枚が彼女の手を離れ、ひらりと私の隣に落ちてきます。


「あっ。ごめん、取るから少しそこを退いてね」

「みゃあ」

「あ、あれ?」


 紙をとろうとするリメリアさんと、それに抵抗する私。

 いえ、別に嫌がらせとか構ってとかでしているわけではないんですよ。

 ただチラリと見えてしまった文章、そこに書かれた内容に不備があったのです。

 それを伝えるべく、紙の端に陣取ってリメリアさんの袖をちょいちょいと引っ張ります。


「これは大事なものだから返してくれると。どうしたの? あれ、ここ間違ってる」


 間違いに気付いた彼女は浅く溜め息を吐くと、一度置いたペンを再び持ち直しました。

 それを見た私も、素早く紙の上から退きます。


「またミスしてたのね、私」


 リメリアさんは深刻そうに眉を顰めていますが、まず一人で処理するような量では無いのです。

 人手がないことを差し引いても、昼間の仕事量は異様と言う他ありません。


「せめてもう一人いたら……ううん。他だって足りてないのに、高望みよね」


 彼女がぼそりと呟いた一言。

 こういうのを天啓、というのでしょうか。幸い私は文字も書けて計算も出来ますし、何よりある理由からこの手の仕事に覚えがあります。

 手伝えれば、少しは恩返しになることでしょう。


 問題はリメリアさんが呪いとやらのせいで近くに人を置きたがっていないことです。あるいは、リメリアさんの根がこれなら多少強引に行くくらいでいいのかもしれませんが。


「にゃー」

「ほら、おいで」


 私の思いつきなど露知らず。リメリアさんは悩める私を抱くと、倒れ込むようにしてベッドに寝転がりました。


「……疲れた」

「にゃっ!?」


 リメリアさんが私の横腹に顔をうずめます。

 初めはくすぐったさに驚いてしまいましたが、あの疲労の色の濃い顔を見てしまっては抵抗する気も起きません。

 今の私は成されるがままです。


「今日ね、新しい人が屋敷に来たのよ。フェイさんって言うの」


 不意に口にされた私の話に、心臓が飛び跳ねました。そんな気もないのになんだか盗み聞きをしている気分です。

 一体何を言われるのだろうとハラハラしていると、私の毛並みで遊んでいたリメリアさんは、静かに笑みを浮かべました。


「あの人と仲良く、なんてことは私では望めないけれど、せめて居心地よく過ごしていてくれているかしら」


 社交会では悪魔のようだと称されている彼女の、天使のような姿を見て私は心に決めました。

 彼女が望めないのなら、私から仲良くすればいいのではないでしょうか。


「にゃっ!」

「わっ、急にどうしたの」


 リメリアさんの手を離れ、決意を胸に毛をピンと逆立てた、その時でした。


「み”ゃ」


 胸に、鈍い痛みが走ります。じくじくとした這いまわるようなこの痛みを味わうのは、もう三度めくらいでしょうか。

 流石に、私もそろそろ解ってきましたよ。


「にゃっ、にゃー!」


 ベッドから飛び出すと、私は部屋の扉を爪を立てないように精一杯、カリカリと引っ掻きます。

 一刻も早くどこかに退避しないと、ここで戻るのだけは避けなければ。

 家から口留めされたのでというのもありますが、こんな形で私の正体がバレたら仲良くなれるものも仲良くなれません。


「開けて欲しいの?」


 怪訝そうなリメリアさんが扉を開くと、私はその隙間から矢のように飛び出していきました。

 背後でポカンとしているリメリアさんが一瞬見えましたが、すみません。埋め合わせは今度します。


 全力で走りすぎて、肺が口から飛び出そうです。けれど、間に合いました。

 胸の痛みが頂点に達する前に自室にたどり着いた私は、素早くベッドの上に乗ります。


 どんどんと強くなる胸の痛み。この痛みは、やはり間違いありません。最初はエルドリンド家で、次は木から落ちた時、これはきっと、身体が変化する兆候なのです。

 痛みが頂点に達し、自分の身体の境界が曖昧になるような感覚と共に、私の意識は刈り取られました。



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