29.棄てられ令嬢信頼される。
「いやいやいや、そんなのおかしいっすよ!」
私とリメリアさんの間に流れていた弛緩した空気を、ルチアの批難するような声が劈きます。
他人の言うところ”血濡れの公爵”が思いもよらぬ結論を出したので、焦っているのでしょう。
「どれだけ言葉を並べても、フェイが怪しいのは変わらないじゃないっすか。状況的にも、ここに証拠だって!」
ルチアが例の書庫にあったという本を突き出します。
確かに現状私以外が盗み出すことが不可能と思えるそれを見ても、リメリアさんは全く動じていませんでした。
「私はフェイを信じると決めたのよ。どれだけ今が怪しくても、フェイが今まで私にしてくれたことが本物だと知ったから。私は彼女を信じられる。仮にそれで騙されて、後ろから刺されても後悔なんてないわ」
他者を無条件で信じること。それがリメリアさんにとってどれだけ重いことなのか、私は知っています。
同時にその信頼が自分に向けられていることが、例えようもないほど無く嬉しくもあり。
「私がリメリアさんに刺すのは櫛くらいですよ」
なんて茶化してしまうのでした。
もう、とリメリアさんが唇を尖らせて、どちらともなくクスリと笑いを漏らします。
そんな私たちを見て勝算無しと判じたのか、視界の端でルチアが音もたてずに踵を返しました。
「どこへ行くの、ルチア」
「っ!」
氷のような冷たさを放つ声に貫かれ、血相を変えて走り出そうとしたルチアがその場でつんのめりました。
彼女の足元がいつの間にか、冬の池のように凍ってしまっていたのです。
ルチアが動揺も見せる間にも氷はパキパキと嫌な音を立てて、ついには彼女の足首にまで侵蝕していました。
「逃げられると思わないで」
「自分も殺されるわけにはいかないんっすよ!」
ルチアはそう叫ぶと、みるみる内に見覚えのある黒い犬へと姿を変えました。
獣化の拍子に足が氷から解き放たれ、暗幕のような黒犬は自由になった身体で走り出します。
「仕方ないわね。それなら全身を凍らせて――」
「待ってください!」
物騒なことを言いだしたリメリアさんを制止し、漏れ出した冷気がルチアの後ろ足を一本だけを捉えました。
氷漬けになった足を引き釣りながら、それでも残った三本を器用に動かし、彼女はこの場から逃げ去っていきます。
「どうして止めたの?」
「ちょっと考えがありまして。出来るだけ、ルチアを傷つけずに捕まえられないかなと」
「考えって?」
「何か事情があるみたいなので、上手くすればこっちに引き込めると思うんです。そうすればルチアの裏に居る人にまで手が届きやすいですし」
彼女の漏らした話から推測するに、彼女は誰かに命令されて一連のことをやった可能性が非常に高いのです。
だったらその命令者こそが真の敵ですし、報いるならばそちらでしょう。
それにルチアには色々と良くしてもらった恩もあります。ちょっとくらいは擁護したってバチは当たらないでしょう。
勿論、リメリアさんの不利にならない範囲にですが。またリメリアさんに何かするというなら、その時は容赦しません。
「誰かに命令されてルチアは動いてると思います。なので、どうでしょうか」
「……それは悪くない、けど。私は交渉なんて無理よ。呪いもあってとてもじゃないけど上手くはいかないわ」
「そこはこちらに任せてください。だから、リメリアさんにはその後のことを任せたいんです。どうやら彼女、貴族に親を人質にされてるみたいなので」
一拍を思考に裂いたリメリアさんが、あぁ、と答えに思い至ります。
「そういうことね。いいわ、私に出来る範囲でなら請負いましょう」
「ありがとうございます。じゃあさっきは止めちゃいましたけど、まずはルチアを捕まえないと」
目標に向けて歩みを進め、いざ部屋から出て行かんとしたとしたところで、リメリアさんが唐突に足を止めます。
つられて私も止まったところで、リメリアさんが私の手を取り、熱の籠った瞳を私に向けました。
「フェイ」
同量の熱を私も向けると、リメリアさんの唇から言葉が零れ落ちます。
「信じているわ」
たかがそれだけの言葉。音の数にしてたった七音の言葉は、けれどどうしようもなく私の胸を優しく、暖かくするのでした。
初春の陽気を運んでくる風のように、胸から全身へと。
この熱で今なら、なんだって出来そうな気がします。
「はい!」
勢いのままドアを開けると、氷で湿気ていた部屋に新鮮な空気が舞い込みます。
湧き上がる全能感に身を任せ、私たちは今度こそルチアを追いかけ始めたのでした。




