03.棄てられ令嬢雇われる。
全身を包みこむ嫌な浮遊感。無謀な挑戦への代償が、痛みという形でもうすぐ私を襲ってくることでしょう。せめて背中以外から落ちれませんでしかね、私。
思考も束の間、とうとう地面に激突するというところで、目を瞑っていた私が感じたのは背ではなく臀部に対する鈍い痛みでした。
「痛~っ!」
声にならない声が辺りに響き、尾てい骨からじんわりと痛みが広がっていきます。
患部を摩ると、余程きつく打ったのか五指が当たる部分がひりひりと――はて。
「指が……ある?」
私の手にあったはずの肉球は無くなっており、代わりに五本に分かれた楓のような指がそこにありました。
驚くのも束の間、ハッとした私は頭の頂点から這わせるように顔、身体へと触っていきます。
ふわふわの綿毛のような感触はそこにはなく、代わりに指先に伝わってくるのはツルリとした人肌のそれでした。
「戻れ、た?」
今更になって気付くのは、自身の喉から出ているのが気の抜ける高音ではなく、意味を持った言葉であるという事実。
話せる。人としてごく普通のことがあまりにも嬉しくて、臀部の痛みさえなければ今頃踊り出していたでしょう。
「でもなんででしょうか。薬の効き目が終わった? いえ、猫として生きろと送り出した割には短すぎる気もします。義母様が加減すると思えませんし、他に原因が」
思考に没頭しはじめた私は失念していたのです。
"猫"ならば咎められることが無くとも、勝手に屋敷に入り込んだ"人"は不審者でしかないということを。
「あ、あのぅ! そこの人、顔を上げてその場で静止してください!」
「は、はい!」
突如投げかけられた鋭い声。
その声に釣られて跳ねるように頭をあげた私は、背もたれ代わりにしていた木に頭を思い切りぶつけました。
「っ――!」
「わわっ、大丈夫ですか」
涙で霞む視界の先で一人大慌てをしている茶色髪の女の子。
よくよく顔を見れば、先ほどリメリアさんの部屋に来ていた人物ではないですか。名前は確か、エマさんと言ったでしょうか。
「い、意識はありますかー?」
「だ、大丈夫です。勝手にぶつけただけですし、そんなに強く打ったわけじゃないので」
「そうですか? 良かった」
エマさんはほっと胸を撫でおろすと、そこで我に返ったように表情を引き締め直します。
彼女は手に持った箒を武器のように握りしめて、私に一歩近づきました。
「それで、あの、あなたは誰ですか? なんでここに居るんですか」
「そ、それは」
私の目が泳ぎます。
公爵家の庭に出没した不審者に対する、ごくごく当たり前の質問。そして不幸なことに、私はそれに対する答えを何一つ持っていません。
「猫になって公爵に拾われたんです。さっき元に戻りました」なんて本当のことを言えば、おかしい人として牢屋行きは待ったなしでしょう。
かと言って誤魔化そうにも、公爵家の庭で尻もちをついていた時の上手い言い訳なんて貴族人生の中で教わったこともありません。
言葉に詰まる私を不審がったのか、エマさんは険しい顔でぐいっと身体を寄せてきます。
「し、失礼しますぅ!」
彼女は私の眼前にまで迫ると、両手を私の懐に突っ込みました。
「な、何を」
「すみませんすみません」
謝りながらも、彼女は懐をまさぐるのを止めません。
身一つで家を追い出された私は勿論何も持っていないのですが。
虚しい宝探しを終えたエマさんは、そこに宝が無いことにあからさまにほっとしていました。
「怪しい人を見たらまず泥棒か確認しろと言われていて。何も持ってないし、違うのかな。すみません」
「いえいえ、怪しいのは事実ですし、こんなところに居た私も悪いですから」
どちらともなく頭を下げ始め、始まったのは謝罪合戦。
私が私がと謝罪のキャッチボールをしていたのですが、よく考えるとエマさんが頭を下げる必要は全くないのでは?
「発端は私なので、私が悪いということでこれで」
「えっ、は、はい。……ところであの、お名前を聞いてもいいですか? 自分はエマです」
「エマさんですね。私はフェイ――」
フェイリア・エルドリンド。そう言おうとして、ピタリと口が止まります。
私はもうエルドリンド姓ではありませんし、伯爵家のフェイリアという人物は今頃死んだことにでもなっているはず。
名残惜しいところもありますが、今の私にエルドリンドとの繋がりを示す名前は不要でしょう。
「フェイ、ただのフェイです」
「フェイさんですか」
新しい名を口にして、なんだか生まれ変わったような不思議な気分になりました。
名、家、役割。背負っていたもの全部が無くなって寂しい反面、身体が軽く感じます。
今なら、空だって飛べるかもしれません。
「それで、そのフェイさん」
「なんでしょう?」
「結局フェイさんはなんでここに居たんです?」
空を飛ぶ羽虫が叩き落される時は、こういう気分なのかもしれません。
「そっ、それはですね、私も気付いたらここに居たというか、色々あって家を追い出されてですね」
そんな出だしから始まった私の言い訳は実に酷いものでした。
余りにも酷いので端的に話を纏めると、私は義母に家を追い出されて空腹に失神したところを誰かに助けられたが、恩人の正体も解らず気付いたらここに居た家無し娘ということになってしまいました。
話せる部分だけを繋いだとは言え、我ながら継ぎ接ぎがひど過ぎます。二十年使い古した服だってもうちょっとマシに違いありません。と、話ながらに思っていたのですが
「ううっ、大変だったんですねぇ。疑ってごべんなさい」
なんとエマさんの涙腺に訴えかけることには成功してしまいました。
嘘はついていないし騙す意図も無いのですが、これはこれで私の中の罪悪感が白い目を向けてきます。
「……私が言うのもなんですが信じていいんですか? 話に無理がありませんか」
「そうなんですけど、そのぅ、泥棒にしては身なりが妙に上等だなーって思ってたので妙にしっくり来たんです」
そういえば服は猫にされる直前、家から出された時のそれそのままでした。
あの時は重要な話があると言って呼び出されたので、最低限きっちりとした服で行ったのですが、装飾の多い水色のドレスはどう見ても屋敷に忍び込むような服装ではありませんね。
「少し汚れてしまいましたけど、売れば多少のお金にはなるでしょうか」
「せっかく綺麗なのに。売ってしまうんですか?」
「話した通り無一文ですし、行く宛もありませんから。せめて路銀くらいは手元に置いておかないと」
服についてしまった汚れをぱっぱと払うと、その下からは綺麗な空色が現れました。
これならまだ高値で買い取って貰えそうです。
私が汚れを落とすことに腐心している間、隣でエマさんはずっと難しい顔をしていました。
「あの、何か?」
「いえ、その、うーん」
歯切れ悪くもう三周り程呻いた後、彼女は何かを決心したように私の手を取ります。
そして、交際を申し込む時の男女のような顔でこう言ったのです。
「もしよかったらここで働きませんか!」
「は、はい! ……えっ?」
疑問符が頭の中を埋め尽くし、溢れた分が素っ頓狂な声となって表に出てきます。
どう言い繕っても今の私は、公爵邸に侵入した出所不明の不審者です。おまけで妄言癖までついてくるかもしれません。
そんな怪しさ満点の私に彼女は、この屋敷で働かないかと言い放ったのです。
「いっ、いえいえいえ。言った通り行く宛もないですし申し出は嬉しいのですけど、何故ですか? 今のところ私、信用される要素皆無ですよ」
「それがそのぅ、超の付く人手不足なんですよぅ。だから、ちょっとくらい怪くても人手が欲しいのです」
「そう、なんですか? 仮にも大貴族様の館なら仕えたい方はいくらでもいるのでは」
「普通の公爵様ならそうだったかもしれませんね……」
それから使用人さんが空を仰ぎながら語ったのは、例の血濡れの公爵の数々の噂でした。
ですが噂の内容は社交会で話されていたものよりも遥かにおどろおどろしく、生き血を浴びているだとか人を丸のみすると言った怪談話に昇華されていて、人が寄り付かないのもさもありなんと言った有様です。
「そんなわけで行く宛が無い人だったら、ここで働いてくれないかなぁっと」
控えめな言い方に反してがっちりと手を掴んで離さない辺り、よほど切羽詰まっているのでしょう。
「私、身元不確かなんですけれど、流石に公爵様が許可なさらないのでは」
「大丈夫です! あんまりにも人が集まらないから、連れて来れそうな人が居るなら誰でもって採用を一任されているんです」
思っていたよりとんでもない所なのかもしれません。
「住み込みだから衣食住は保証されますし、一つだけ気を付ければ危険も無いので、お願いしますよぅ」
「ちなみになんですが、その一つとは?」
「公爵様のご機嫌を損ねないこと。もっと言うなら、出来るだけ顔も合わせない方が良いです」
これから死地へと赴く冒険者に助言でもするように、エマさんは神妙な顔で言い含めます。
リメリアさんの扱いが、ここまで行くと人と言うより猛獣か魔物ですね。
さっきはそこまで恐ろしいという印象はなかったのですが。
「そんなにですか」
「そんなにです」
エマさんが重々しく頷きます。
「公爵様のことはわかりました。本当に私で良ければお世話になりたいのですが」
「そうですか、やっぱり無理ですよねぇ。ええっ」
私の言葉を半分も聞かない内に肩を落としたかと思えば今度は驚愕に目を剥いて、最後は喜色満面と一人百面相を繰り広げるエマさん。
感情に合わせて身体まで忙しなく動いているので、何と言うか見ていて飽きません。
「ほ、ほんとうですか? ほんとに良いんですか。出来るだけサポートはしますけど、公爵様と会った時に命の保証はできませんよ」
「命は大事にしたいところですが、他に行く宛もありませんから」
第一、あのリメリアさんが本当にそんな人物だとは思えません。
もしそうだったとしても、彼女が恩人であることに変わりないのです。
働くうちに彼女に恩返しができるかもしれませんし、願ったり叶ったりです。
「これからよろしくお願いします。エマさん」
「こちらこそよろしくお願いしますぅ! これでようやく一人でこの広いお屋敷を掃除しなくて済むんですねぇ……」
彼女がほろりと零した涙には、これでもかと哀愁が詰まっていました。