28.棄てられ令嬢笑い合う。
それは春の陽光のような、心地よくどこからか安堵を運んでくる熱でした。
熱は血流に乗って身体中へと巡り、小さな四肢を隅々まで。
その熱に私をせき止めていた何かが溶かされて、許容を越えて零れるように、私の中から私が溢れだします。
私の目線がいつもの高さに戻ると、突然のことで呆気に取られているリメリアさんの顔が目の前にありました。
彼女の手の中で戻ったので、それこそおでこのぶつかりそうな距離に。
切っ掛けは何でどうして今戻ったのか、そんな疑問が浮かんだのも一瞬のこと。
それよりも私にはやるべきことが、伝えるべき言葉があります。
「今まで、なんて言わないでください。私は、お別れは嫌です」
戻ったばかりで切れ切れ声に、どうか届けと想いを込めて。
「私も、ずっと楽しかったんです。お散歩も、おしゃべりも、なんでもない書類整理だって。
ここでの日々が好きで、リメリアさんと一緒は楽しいから」
一つ一つ丁寧に、曲がることも過つ隙も無く、私の気持ちが伝わるように。
「だから私はまだここに居たいんです。その気持ちに計算も、嘘もありません。最初は少し違って、恩を返したいっていう気持ちからでしたけど。でも今はただリメリアさんの隣に居たい、本当にそれだけなんです」
身体中の熱を言葉に乗せて、私は想いを吐き出します。
確かに吐き出したはずなのに、熱はまたお腹の底からふつふつと沸いてきて、言葉は幾らでも形になってしまいそうでした。
だけど私のその衝動をぐっとこらえて、自分の冷静な部分を引き出します。
きっと言うべきことは言いました。これ以上はまたあとで、今は誤解を解いていく番です。
「その、猫だったことは黙っていてすみません。だけど、陥れるとかそういう意図があった訳じゃありません。私、実は元貴族で、家から棄てられたんです。身に覚えは無いんですが罪を着せられて、それで、そのままだと家にまで害が及ぶので、罪の取り消しと引き替えに私は居ない者になりました。あの姿は、その時掛けられた呪いが原因です」
私の身に起きた出来事をなぞるように、リメリアさんの目が思考と一緒にゆっくりと左右に動きます。
「あの森でのこと、憶えてますか? 私を拾ってくれた日です。あの時、私は死にかけていたんです。
一人で冷たくなっていくところを救ってくれた命の恩人に、恩返しがしたかった。それが私の始まりで、原動力だったんです。信じて、くれますか」
疑心の中で生きてきたリメリアさんに、あえて私はその言葉を向けます。
きっと、私は己の身の潔白を証明出来ません。今この場で盗みは私がしていない証拠なんて無くて、心の中での背信なんて、もっと証明の難しい物です。
だからどの道信じて貰えなければ私はここに、隣に居ることなんて出来ません。
積み重ねた日々が、きっとリメリアさんに届くと信じるしかないのです。
じっと私の話を聞きながら俯いていたリメリアさんのつむじが揺れました。
「……じゃあフェイが黙ってたのは、その除名されたっていう家のため?」
「はい」
「全部、善意でやってたの?」
「はい」
ふらりと力を失うように、リメリアさんが私に向かって倒れ込みます。
受け止めた身体は羽のようで、今にもぽきりと折れてしまいそうでした。
「リメリアさん?」
「……なさい」
小さくて聞き取れなかった言葉を聞こうと耳を近づけると、ぐすりと、鼻を鳴らす音がしました。
「ごめんなさい。私、ずっとフェイのこと心のどこかで疑ってた。舞踏会で貴女が怪しいって言われて、書庫から盗まれた本まで見せられて……ううん、それより前から、何か裏があるんじゃないかって。フェイを疑ってた。貴女の優しさを、信じられなかった」
ポタリと暖かいものが私の肩に当たり、肌を濡らします。
肩越しで表情は見えないのに、リメリアさんが今どんな顔をしているのか、私にはわかってしまいました。
そんな罪悪感なんて、抱かなくていいんですから。
「いいんです。こちらこそ、ずっとあの姿のこと言えなくてすみません」
「ううん、理由は分かったから。……私がちょっと貴女を信じるだけで、こんなことにならずに済んだのに」
「でしたらこれから。これから、信じてくださいませんか。一度は貴女の気持ちを裏切ってしまった身ですけれど、これから何度はだって貴女が信じられるよう、言葉を尽くします。ですから許してくれるのならこの先も、一緒に居てくれますか?」
こくり、と。こくこくと。薄水色が最初は小さく縦に一度、それから何度何度も振られます。
言葉はありませんでしたが、それでも。
ひどく遠回りでしたけど、ようやく目的地にたどり着いた。そんな気がしました。
嘘と勘違いで空いてしまった距離を埋めるように、彼女を強く抱きしめると、私の背に回された腕が同じだけの力を返します。
身体を巡る安堵の中に、何か別の暖かい気持ちを仄かに感じましたが、それの正体を探すことにさほど興味が沸きませんでした。
それよりも今は、この腕の中にある暖かさの方が大切ですから。
密着した胸から聞こえる心臓の音が溶けあって、私たちはまるで一つになってしまったみたいでした。
「リメリアさんに、聞いて欲しいことがあります」
「なに」
「もうこんなことの無いよう私の出自を、かつて私の名前だったものを聞いてくれませんか」
「……いいの? 居なかったことになってるんじゃ」
「また誤解の種に使われる方が怖いので」
思えば私が家名に執着する理由なんて、元々母以外には薄かったのです。
散々義母に我慢させられて、挙句冤罪で一度は家に棄てられた身。一度くらいはこちらから棄てても文句の謂れはないでしょう。
「エルドリンド家元長女。フェイリア・エルドリンド。それが私の名前です」
「フェイリア、ね」
「フェイでいいですよ。私もフェイとして生きていきたいので」
そう宣言した時すとんと、私は急に肩が軽くなったような気がしました。
何も持たずに家を放逐されたと思っていましたが、存外に、私は色んなものを持っていたようです。
そしてこれからは、もっと別の物を背負おうと思います。
「リメリアさん。家も名前も一文も無いこんな私ですが、もう一度、ここで使用人として雇ってくださいますか」
「……冷血で、人を傷つけてばかりで、すぐ他人を疑う。そんな主だけど、いいの?」
「優しいのに誤解されがちで、人を遠ざける癖に寂しがり屋で、疑っていてもやっぱり他人に甘い。そんな貴女が、良いんです」
リメリアさんはその瞳みたいに真っ赤に腫らした目で、多分、私もそう変わらない顔で。
お世辞にも綺麗とは言えませんけれど、私はたちはきっと初めて、心の底から二人笑い合うことが出来ました。




