24.棄てられ令嬢立ち尽くす。
鳥の囀りさえまだ聞こえてこないような早朝、身体を流れる汗の嫌な感触で、私は目を覚ましました。
ゆっくりと上体を起こすと、背中側が汗で貼りついてしまっています。
昨夜は確か部屋を閉め切られて、それでお腹を空かせて厨房でご飯を貰ったりして、それから……。
ずきんと頭が痛みます。昨夜の記憶がまどろみの残滓を掻き切り、私の意識を一気に覚醒させました。
そう、です。昨日帰ってきたリメリアさんは、明らかに普通じゃありませんでした。
疲れからかあの後すぐに寝入ってしまいましたが、普段では考えられないほど弱弱しくすすり泣くあの人の顔は、瞼の裏に強く焼き付いています。
とにかく、話を聞いてみないと。
焦燥感が背を押すままリメリアさんの下に向かおうとして、胸中で渦巻く別の不安が私の足を止めました。
彼女が昨夜言っていた、私の裏切り。
それがもし、私がずっと秘密にしている出自のことを指しているとしたら?
あるいは潔白のため素性を明かせと言われたなら。
私は、どう答えればいいのでしょうか。
母との約束を守るには、どうしたら。
立ち尽くし、答えの出ないまま、リメリアさんと顔を合わせる時間はやってきました。
「おはようございます」
「……えぇ」
努めていつも通りに声をかけると、返ってきたのはただ一言、絞り出したような苦々しい声でした。
いつもなら朗らかな雑談が交わされる朝も、今日ばかりは重苦しい沈黙がまとわりつきます。
何を、話せばいいのでしょう。
どれだけ迷っていても、慣れで手だけは動いてしまい、機会を伺う内に支度は黙々と進んでいきます。
今日はエマが居ないから、支度にかかる時間はいつもより長いはずなのに。
髪を整え、服を着せ、全ての準備が終わってしまうのに、そう時間はかかりませんでした。
「あの」
「ねえ」
仕上げに結った髪を留めて、ようやく踏ん切りがついた時、全く偶然に、そしてタイミングの悪いことに、リメリアさんの声と私の声が重なりました。
再び訪れた短い沈黙を経て、今度はリメリアさんだけが口を開きます。
「……ねえ、フェイ。貴女は誰で、どこから来たの。お願い教えて」
彼女は俯き背を向けたまま、震える声で私に問います。
「私は、貴女の素性を何も知らない。どこの誰なのか、何者なのか、ここに来る前は何をしていたのか」
「そ、れは」
私は、何も言えませんでした。
だって、私の過去はあの家に置いてきたから。
エルドリンド家のために、母との約束のために。
だけど、そんなことはお構いなしに、現実は私に選択を突きつけます。
「……あの書庫から、日記が盗まれたの。書庫の場所を知ってるのは私と貴女の二人しか居ない」
「っ、違います! 私じゃ、ありません」
「私だって、そう思いたい」
私の力無い否定は、それ以上にか細いリメリアの言葉で、いともたやすく掻き消されます。
「だから、一つだけ教えて。身の潔白なんて証明の難しい物は、要らない。素性も本当はどうでもいい。これだけ、答えてくれたらそれで」
問い詰めるような彼女の言葉は、いつしか縋るようなそれへと変わっていました。
「フェイはどうして、会って間もない私なんかに優しくしてくれたの。どうして、ここに居てくれたの。
私に取り入るためじゃないなら、どうして。……お願い、それだけでいいから。それだけ知れれば、それ以上は何も聞かないから」
俯いたままの彼女の手が、私の服の裾を力なく掴みます。
説明、しないと。私が貴女に近づいたのは、貴女を裏切るためじゃないって。命を救われたからなんだって。
だけど、そのためには事の経緯を全て話さないといけません。あの猫であることも、呪いのことも、家のことも全部。
これだけ信頼して、譲歩してくれたのに、私は言葉一つ見つけることが出来ませんでした。
今までのような誤魔化しでは、きっとリメリアさんは納得してくれないでしょう。
だからと言って嘘を吐けば、鋭い彼女に見抜かれるでしょうし、何よりそうなったら、私はもう彼女に顔向けは出来ません。なのに。
母との約束を守りながら、彼女を納得させるなんて都合のいい道は、端からどこにもなかったのです。
「……っ」
「答え、られないのね」
リメリアさんの信頼に沈黙で返した私に待っていたのは、わかりきった結末でした。
「出ていって」
短く、けれど重たく突きつけられた別れの言葉。
それに抗う何かを、私は持っていません。
こんな、終わりなんて。私は、貴女にそんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
思えば都合が良すぎたのかもしれません。
あの日、絶望の底に居たところをリメリアさんに救われて、私はここにやって来ました。
姿を変えて人として現れた私にも、あの人は居場所をくれました。
楽しい、本当に楽しい日々でした。
私自身はずっと、大事なことを秘密にしたままで。
このままじゃいけないと、心のどこかでは分かっていたはずなのに。
持ち物とも言えない、多少の路銀だけが入った袋を手に持つと、私は自室だった場所の鍵を閉めました。
もう、ここに戻れることはないでしょう。
信用の置けない私が傍に居ても、あの人の気が休まりませんから。
朝から何も食べていないはずなのに、胃からは鉛を飲み込んだような重さがしました。
遅々として進まない、、死人にような足取りで、お世話になった屋敷の中を歩いていきます。
そうして見慣れた食堂の前を通りがかった時、ふと私の目が、そこに入っていくエマの背を捉えました。
「……挨拶くらいは、していきましょうか」
思えば、私がここにお世話になった切っ掛けも彼女でした。
いきなりここを去るのなら、別れくらいは済ませておくべきでしょう。
ずるずると足を引きずるように、私も食堂の中へと入っていきます。
どうしてか、すぐそこにいたはずのエマの背中すら、今の私のはひどく遠く感じました。




