20.棄てられ令嬢思い惑う。
どれだけ眠るのが遅くなっても、習慣というのは中々どうして身に着いているようで。
いつもより僅かに遅い時間、高くなった天井を見上げながら、私は目覚めました。
傷は相変わらず少し痛みますが、リメリアさんの元に行かないわけにはいきません。
行かないと、明日戻れませんからね。
傷口が開かないよう細心の注意を払いながらベッドから降りて、いつもの場所に向かって歩きだします。
よちよち歩きで暗い廊下を進んでいくと、角を曲がったところで、視界が見慣れない物を捉えます。
廊下の真ん中に浮かぶ、二つの灯火。金色をしたそれが眼であることに咄嗟に気付けなかったのは、その位置が妙に低かったせいでしょう。
私とそう変わらない高さにある金色は、じっとりと観察でもするように、私に向いていました。
その周囲、ぼやけた輪郭をようやく目が捉えだした時、すっと私のお腹の下に、何かが入り込みました。
「こんなところに居たのね」
お腹の下から腕で支えるように、いつもより丁寧に私を持ち上げたリメリアさんが、安堵を含んだ笑みを浮かべます。
わざわざここまで、探しに来させてしまったみたいです。
「みゃーお」
腕の中にすっぽりと納まった私がようやく振り向いた時、廊下に居た何かはもう居ませんでした。
あれは一体、なんだったのでしょう。
「今日は大人しくしておいてね」
ベッドに寝転がされ、お腹に包帯をぐるぐると巻かれます。
治療はありがたいのですが、人と猫を行き来する時、衣服以外に身に着けている物は消えてしまうんですよね。
衣服だけ残してくれるのは幸いなのですが、一体どう魔法が作用しているんでしょうか。
「これでよし。激しく動いたらダメだからね」
つらつらとくだらないことを考えているうちに、すっかり包帯を巻き終えたリメリアさんが、きゅっと包帯の端を結びます。
やっぱり手際がいいと言うか、妙に治療が手慣れてるのはなんでなのでしょうか。
「みゃう?」
「どうしたの。まだ痛みが……んん?」
私を抱きあげたリメリアさんが、私の怪我を凝視します。
「妙な符合もあるものね。確か、フェイも同じところに怪我を」
「うみゃあ!!」
その思考は不味いです!
何か出来ないか。そう一瞬で考えを巡らせた結果、何故か私は前足でばっと、彼女の頬を挟み込みます。
肉球越しの彼女の頬は、白パンみたいにふわふわでした。
「……にゃ、にゃあ」
「……やったわね」
仕返しとばかりに突き回された私は、体格という圧倒的な戦力差の前に成す術もありません。
後に残ったのは、水を吸ったパンみたいにふにゃふにゃになった私でした。
うぅ、せめて思考を逸らせたのだけが、怪我の功名です。
「にゃうう」
「ごめんなさい。やりすぎたわ」
彼女はぐでっとした私を抱き直し、先ほどまで頬をつついていた指で、今度は私の頭を優しく撫でました。
「それでも、いつもこうして来てくれるんだから、貴方も不思議な子よね。貴方はいつもどこから来ているの?」
ここから二つ廊下を曲がった先の、使用人部屋です。
なんて、言えるわけもありませんが。
「にゃっ」
「いっつも慌てて出て行くんだもの。どこかに秘密の住処でもあるのかしら」
くすりと笑うリメリアさんの表情は、どこか晴れないものに見えました。
彼女は一度瞼をゆっくりと降ろすと、緊張をほぐすように浅く息を吐きます。
「……ねえ、貴方に秘密があるように、フェイの、私の大切な人の秘密ってなんだと思う?」
再び開いた紅の瞳には、憂いが、大きく波のように揺らいでいました。
「お金? 仕事? それとも出生? フェイもああ言ってくれたし、それを信じるって決めた、けど」
必死に波に抗うみたいに、身を縮こめたリメリアさんが、私の耳元で言葉を零します。
「やっぱり、怖いな」
怪我とは別の締めあげるような痛みが、胸に押し寄せてきました。
当然、ですよね。明かせないことがあるけど信じてください、なんて都合のいい言葉。やましいことが無くても信じられなくて当たり前なんです。
なのに、リメリアさんは信じると言ってくれた。呪いのせいで不信に塗れた人生を送ってきたはずの、リメリアさんが。
裏切りや背信の経験という泥土が纏わりついた、重い足を一歩、踏み出して。
なのにどうして、ぬかるみから引っ張りあげることが出来るはずの私は、ここで足踏みをしているのでしょう。
ただ、全てを打ち明ければいいだけのはずなのに。
けれど、私は……。
『フェイリアは賢いから、きっと大丈夫よ。父さんと、エルドリンド家をよろしくね』
大好きだった母は亡くなる前夜、掠れた声で絞り出すようにそう言いました。
日頃はあんなに大きく感じたのに、頭を撫でる、枯れた細木みたいになってしまった手の感触を、私は未だに忘れることが出来ません。
親不孝だった私が守ることの出来る、最期で唯一の母との約束も。
エルドリンド家のために、私は過去を差し出しました。
それが、最善だと思ったから。
でも、このままではきっと、私の大切な物は守れません。
私は一体、どうすればいいのでしょう。
どう、したいのでしょう。
小さな猫の鳴き声は、暗闇に押し殺されて誰にも聞こえることはありませんでした。




