02.棄てられ令嬢拾われる。
「大丈夫、どこか痛む?」
私の耳を甘く引っ掻くのは、思いやりと心配で溢れたような柔らかな声。
その声の主が、ふかふかのベッドの上でぽかんとする私を優しく一撫でしました。
怪我をしていた私の足にはいつの間にか包帯が巻かれており、気を失っている間にこの人が手当をしてくれたであろうことは、袖につく私の毛が証明しています。
何故、こんなことになったのでしょう。
それは数分ほど前のこと。何か悍ましい物を直視し森で気を失った私は、見知らぬ部屋のベッドの上で目を覚ましました。
誰かの寝室であろう部屋の中はよくよく見ると、仮にも伯爵家だった私の実家が霞んで消えるほどの上等な調度品がチラホラと誂えられています。
つまりベッドも相応に上等な物で……喉がひゅっと音を鳴らし、慌てて飛び退こうとしたところを見事誰か、もとい声の主にキャッチされて事ここに至る次第です。
「にゃ……」
そんな経緯で私を撫でまわしているこの人が、意識を失う直前に見た血塗れの人物である事は、特徴的な紅の瞳が同じことから間違いないでしょう。
そしてはっきりと顔見た今、もう一つ分かったことがあります。私は以前からこの人を、いいえ、この方を知っているのです。
「どうかした?」
目の前でこてりと首を横に倒してみせるのは、鮮血を思わせるような真紅の瞳と、氷の造花のような薄水色の髪を腰まで流した貴人、リメリア・フロイシス・スティンレート公爵。
並ぶ者のないと称されるような美しさを持つ女性でありながら、十七歳と若くして異例の公爵家当主の肩書を持つこの国の重鎮。それと同時に周囲に黒い噂の絶えない、通称”血濡れの公爵”。
曰く、冷徹が服を着て歩いているような人物で、氷で出来た心臓には血も通っていない。実の親すら文字通り自身の手で斬り捨てた非情の冷血公。
万魔蠢く老獪な貴族たちの中でさえ恐怖の代名詞として語られ、社交界でも近づく者すら居ない悪魔のような人物。の、はずなのですが……
「痛いかもしれないけど、少し我慢して」
穏やかな笑みを携えて私に巻かれていた包帯を汚れも厭わず替える、恐怖の化身こと”血濡れの公爵”。
今のリメリアさんはどう見繕っても私と同じ年の頃の、ただの動物好きの少女と言った感じです。
こんな人だったと友人たちが聞けばきっと、笑うか私の病気を疑われることでしょう。
「――よし、処置は終わり。後は、食欲があると良いんだけど。はい」
包帯を巻き終えた公爵が、ことりと私の目の前にお皿を二つ置きました。中身はなんと、軽く火の通された鶏肉とお皿いっぱいのミルク。
ほくほくと湯気をあげ、ほんのりと香ってくるお肉の匂いに視線が釘付けにされ、お腹が空腹を思い出してきゅうきゅうと鳴りだします。
「どうぞ」
「みゃー!」
リメリアさんの合図も待たずお皿に飛びつきます。それはもう豪快に。
柔らかく食べやすくほぐされた鶏肉を口一杯に頬張ると、ふわりと口の中でお肉の風味が広がりました。
味つけも無いただの鶏肉。けれどそれは、極限の空腹という危険なスパイスで、舌先に踊る極上の料理へと変貌します。
今まで食べたどんな料理よりも、幸福感という一点では勝っていたかもしれません。
あまりに勢いよく食べ過ぎて、飛んでいく肉片が視界の端を過りますが、ごめんなさい、気にする余裕はありません。
産まれてこの方一緒に生きて来た淑女教育も今だけはポイですポイ。
マナーをゴミ置き場に投げ捨てながら食事を頬張っていると、頭上からクスクスという笑い声が降ってきます。
「そんなに焦らなくても、食べ物は逃げないし盗られないわ」
嗜めるような彼女の言葉で、私はようやく、目の前に繰り広げらていた惨状に気が付いたのでした。
「……みぃ」
高そうな敷物の上には、散乱した鶏のバラバラ死体。あちこち飛び散ったミルクは染みになっていて、中々落ちないこと請合いでしょう。
激怒間違いなしの光景に恐る恐るで視線をリメリアさんへと向けてみると、
「汚れなら気にしないで。それとも、食べ物が足りなかった?」
と言って、またクスリと笑います。
私の中に微かに残っていた”血濡れの公爵”のイメージが、粉みじんに砕け散る音がしました。
食事を片付け、頭上に音符でも浮かべていそうなリメリアさんが、私を膝の上に乗せ直します。
がっちりしたホールドと、わきわきと蠢く彼女の指が不穏を告げますが、公爵にお掃除をさせるなんて失礼極まることをした手前逃げ出すことも出来ません。
鼻歌混じりの彼女に撫でられるままにしていたところで、突然、ガチャリとドアノブを捻る金属音が部屋に響きました。
「こ、こ公爵、様!? いらっしゃったのですか」
その方が私を目撃するよりも先に、リメリアさんがそっと私を背中に隠します。
部屋に入ってきたのは、掃除用具を片手に持った服装からして使用人の女性。
彼女はベッドに座る公爵の姿を見るなり、顔面を真っ青にして頭を地面に埋める勢いで下げました。
「も、申し訳ございません! この時間にお部屋に居られるとは思わず」
平身低頭。何度も必死に頭を下げる彼女は鬼気迫るというか、公爵に対しての怯えすら感じさせます。
対してリメリアさんはというと、先ほどまで私を撫でていた人と同一人物とは思えないような冷たい瞳で、その使用人を見つめていました。
「下がりなさい、エマ」
立ち上がり、たった一言。しかし、押しつぶすような重圧を持って発された一言は、この人物が血濡れの公爵と呼ばれていることを思い起こさせるには十分なものでした。
そこに私を優しく手当してくれていた人物の面影はありません。
近寄る者全てを威圧し凍えさせるような冷血の瞳に射貫かれ、使用人がカチカチと歯を鳴らしだしました。
「下がれ。三度は言わない」
感情の無い平坦な声を受けて、ついに顔色を失った使用人が逃げ帰るように退室していきます。
静かになった部屋の中に響いたドアの閉まる音が、やけに大きく聞こえました。
「行ったかな」
振り返ったリメリアさんが能面のような顔のまま、私に手を伸ばそうとします。
そこにゾクリとした物を感じて私は咄嗟に一歩、退いてしまいました。
「っ」
すると彼女の表情が、砂の城が崩れるように一気に歪んで崩れます。
その中に一瞬、泣きそうな顔を覗かせたのはきっと気のせいではないでしょう。
「ごめんね、怖がらせたかな。猫ってそういうのには敏感だもんね」
リメリアさんは表情を取り繕うとベッドに腰を降ろし、勢いに任せて両足を投げ出します。
「……私には馬鹿げた呪いが掛かっていてね。誰も私を信じず、皆がいつか敵になる。そういう呪い」
絞り出すように彼女が語り始めたのは、にわかには信じがたい身の上話でした。
魔法ならともかく、呪いとなると御伽噺や骨董の類です。けれどリメリアの表情が、それが少なくとも彼女にとっては嘘でないことを証明していました。
「父が私のために残した唯一のもの。死に際の、とびきりの怨嗟を込めた呪いだったわ。
それと公爵なんて立場もあって、周りは皆敵だらけ」
そう自棄気味に笑うリメリアさんは、誰からも手を引いて貰えない迷子のようで、酷く寂しげに見えました。
「だから、恐れられるくらいで丁度いい。距離を縮めても、お互いロクなことにならないから。……って、私は猫相手に何を。疲れてるのかな」
「みぃ」
立ち上がろうとしたリメリアさんを引き止めるように、私は彼女の手の甲に前足を乗せました。
そうしないと、寂しそうなままどこかへ飛んでいってしまいそうな気がしたからです。
「何を、わっ」
「みゃお」
リメリアさんが動きを止めた隙に一足飛びに頭、は届かないので肩に飛び乗って、彼女のこめかみに肉球を押し付けます。ふにふに。
「えっ何、もしかして、慰めてくれてる?」
「にゃっ」
胸を張ろうとして、予想以上に小さい彼女の肩に足を掬われかけて、慌てて姿勢を戻します。
「不思議ね、賢いのかな。言葉が解ってるみたい」
「みゃ!?」
予期せず真実を射抜いた言葉に冷や汗が背を伝いましたが、彼女はさほど気にした様子も無く、私をゆっくりと肩から降ろします。
「ありがとう。そろそろ行かなくちゃ。君は……良かったら、ここで飼われない?」
哀しさの気配はいつの間にか霧散し、代わりに私へと期待を帯びた目が向けられました。
確かに公爵家の飼い猫になれば、衣食住にまず困ることはないでしょう。とても魅力的な提案です。
けど、私はそれを受け入れられません。私の目的は猫生を全うすることではないからです。
いつか人間に戻り、実家とは関係の無い一個人としてつつましやかに一生を全うする。
そんな私の人生? 計画に飼われるという選択は不要なのです。
リメリアさんには救われましたし、あんな身の上話を聞いてしまってはなんとかしたいところではありますが、それとこれとは話が別。
恩返しは人に戻ってから、です。
「にゃっにゃ」
ぺちぺちと彼女の手の甲を叩き、そっぽを向くことで否定の意を示すと、
猫パンチによる朧げな意思疎通にはなんとか成功したようで、公爵が残念そうに肩を落とします。
「拒否、かな? 残念。君が良かったら、またここに来て。歓迎するから」
「みゃーお」
また来ますね。そんな想いを込めた私の一鳴きは届いたのか否か。既に背を向けてしまったリメリアさんの表情は分かりませんが、僅かに空気が和らいだので、きっと伝わったと信じましょう。
去って行くリメリアさんを見送り良い感じの別れを終えたところで、さて、私は今一つの問題に直面しています。
あの人は普通に扉から出て行きました。当然、扉は開けたら閉めますね。
さて、ドアノブを回すことが出来る猫が居るでしょうか。そうです、居ないのです。
つまり私、部屋から出られません。
このまま部屋に居てもいいのですが、そうすると居着いたと勘違いした彼女にそのまま飼われてしまう可能性があります。
拒否した手前、それはちょっと格好もつきません。
窮した私が見つめる先にあるのは、開けっぱなしのテラスへと伸びる絶妙に届きそうな一本の木。
……届くでしょうか。いえ、今の私は猫。届くはずです。
助走をつけて思いっきり足に力を入れると、宙へと身体が踊ります。
飛距離は十分。後は着地に気を付けるだけ、のはずでした。
「み”ゃ?!」
胸に突然、謎の痛みが走ります。刺すような、それでいてどことなく既視感のある痛み。
その痛みに気を取られて枝から足を踏み外した私は、当然地上へと真っ逆さま。
せめてここで足ではなく背中から落ちてしまう辺り、私、やっぱり猫は向いていないのかもしれません。