16.棄てられ令嬢煩悶する。
今日も今日とて執務室に向かう途中で、脇腹に鋭い痛みを感じます。
今私の横腹には、ちょっとした大きめの切り傷がありました。
昨夜のちょっとしたアクシデントで負った傷です。
リメリアさんのお陰で傷口はほとんど塞がっていますが、いきなり痛みが消えるというわけではないようで。
おかげで朝から着替えに業務にと四苦八苦でした。洗濯なんか、特に。
普通にしていれば問題ないんですが、腕をあげたりすると凄く痛いんですよね。
エマが一緒じゃなければ、途中でダウンしていたかもしれません。
ともあれ時刻は夜、今日は山も谷も超えました。この後はもう力仕事も無ければ、身体を動かすような用事もありません。
だって今からは、お手伝いの時間ですから。
「こんばんは」
「こんばんは。今日はいつもより遅かったわね、もうそこに選り分けてあるわよ」
机の上に置かれているのは、今日も今日とて大量の紙束。
その大半はどうでも良い報告やいちゃもんの類ですが、よくもまあ毎日これを送り付けられるものだと、送り主の貴族方には感心さえしてしまいます。
「すみません、洗濯に手間取ってたらどんどん後ろが詰まってしまいまして」
「手間取った? 珍しいわね、フェイはなんでも手際よくこなす方だと思ってたけど」
「そんなことないですよ。結構肝心なところで失敗したりしちゃうんです、私」
脇の怪我なんか、特にそれです。
見られると猫と私が繋がってしまいかねないので、言いませんけど。
魔法で治して貰ったおかげか、治り方も少々不自然ですしね。
「……あまり想像できないわね」
「ここに来た初めの頃なんか、そんなのばかりでしたよ」
「そうだったかしら」
「そうでしたよ。勢いだけで公爵位の方にお願いをしにいったりとか。まあ、それは成功したみたいですけど」
くすりとどちらかが笑いを漏らし、それを切っ掛けに二人して笑い合います。
このところ、私と居る時のリメリアさんは笑顔が増えてきました。
それはとても喜ばしいことで、私のやりたかったこと。
けれどその笑顔を見る度どうしても、思考に小さく影が差します。
私のずっと隠している、本当のこと。
……もし、リメリアさんが私の隠し事のことを知ったら、どう思うでしょう。
騙していたと怒る? あるいは、他所の貴族の手の物だと疑うでしょうか。
縁が切れているとはいえ、傍目から見た私は他家の貴族。
それも派閥で言うなら、スティンレート家とはあまり関係の良くない派閥に属していました。
状況だけ並べれば、良くて敵対貴族からの密偵扱いでしょうか。
脇腹の傷が、痛みました。
「どうかした?」
少し、考え込み過ぎたでしょうか。リメリアさんの真っ赤な瞳が、私を心配そうに見つめていました。
「いえ、少しぼーっとしてしまってただけで。すみません」
「謝らなくていいわ。それより病気かもしれないから、体調には気を付けてね」
リメリアさんの優しい声色が、私の中にある後ろ暗さを風船みたいに膨らませていきます。
わかっているんです。今がよくないことくらい。
猜疑の中で生きて来たリメリアさんに、嘘をつき続けるというのは何よりの裏切りでしょう。
……けれど、話すことも出来ません。フェイリア・エルドリンドは、全ての罪を被って死んだのです。
今更全てを明かして家に迷惑をかけることは、大好きだった母との約束を破ることになりますから。
『エルドリンド家をよろしくね』今際の際に、母は私にそう言いました。
だから、私は――
「――イ。フェイ」
水中に居るような、ぼんやりとした声が聞こえます。
「フェイ、本当に大丈夫?」
いつの間にかリメリアさんの整った顔が、鼻と鼻のぶつかりそうな距離にありました。
「わっ」
「えっ」
慌てて距離を取ろうとして、ソファーに深く倒れ込んでしまいます。
その拍子にリメリアさんまで一緒に倒れ、私に覆いかぶさりした。
彼女の瑞々しい桃色をした唇が、段々と私に近づいて……
「あっ?! す、すみません」
ぶつかる直前に、するりと横に抜けました。
なんだか脇腹が痛んだ気もするのですが、今は心臓の方が大惨事です。
「だっ、大丈夫でしたか?」
「えぇ」
すくりと立ち上がったリメリアさんの顔は、彼女の瞳の色が写ったように真っ赤でした。
「お顔が……まさか、どこか打たれたのですか?! すみません、私が避けたばっかりに。今冷やすものをとってくるので」
「違っ、そうじゃないわ!」
部屋を飛び出そうとした私の腕を、リメリアさんがすかさず掴みます。
一投足の間合いのまま、彼女の目だけが盛大に沈黙の中を泳いでいました。
「……えっと……暑いのよ、この部屋」
小さな換気窓が、自分を忘れるなとばかりにぴゅうと風を送り込んできます。
今日は暑いというにはあまりにも、涼を感じる夜なのでした。
「……」
「……」
何か原因かは解らないけれど、追及はしない方がいい。直感が、そう言っていました。
リメリアさんの手の中にある腕を無言で引くと、抵抗も無くするりと抜けます。
「お仕事、続けましょうか」
「そうね」
そそくさと定位置に戻った私たちは、言葉も無く仕事に邁進しました。
円滑な会話が戻ってくるのは、もう少し後のこと。




