1-02『鳴海陽菜は意外とヘタレ』
陽菜に最初のチャンスが来たのは、昼休みのことだった。
いつもはだいたい、大輝を含む六人ほどのグループで昼食を取っている。最も仲のいい友人たちだ。
大輝はときどき、ふと思い立ったように別のグループに行くことも多い(あの男は友人をまったく選ばない)のだが、陽菜のほうはほぼ固定メンバーで、特に仲のいい女子と三人と昼食を別にしたことは数えるほどしかない。
だから今日も、こうして六人で学食までやって来た。
幼馴染みの少年――安藤翔太を学食で見つけたのはそのときだった。
これは、割と珍しい事態だ。
翔太が学食派ではないことを幼馴染みの陽菜は知っている。彼は隣のB組だし、お昼に誘うなんてことはとてもできない(恥ずかしいし)陽菜だったが、今日という日はちょっとばかり事情が違う。
なにせ、翔太はひとりだ。
これをチャンスと呼ばずしてなんと呼ぶべきだろう。
「今日、いつもより混んでんな」
と、そこでふと大輝が呟く。
すでに食券の列に並んでいるところだが、彼はそこから抜け出して。
「先ちょっと席取っとくわ。行こうぜ陽菜」
「――――」
意訳:抜け出させてやるから声をかけてこい。
大輝は目敏い男だ。同じように、列に並ぶ翔太を彼も視認して、陽菜にチャンスを作っているのだろう。
視線でそれを察した陽菜。自然に抜け出せるよう、大輝に話を合わせた。
「そこはひとりで颯爽とやっとくとこじゃないの?」
「学食の席、ひとりで六人分も確保できる荷物がないからなー。それに寂しいし」
「アホくさ……ま、いいや。行こっか」
「んじゃ頼むな。俺の分はA定で頼むぜ、千尋」
「うん。食券だけ買っておくね」
友人の女子――神村千尋に購入だけ頼んで、陽菜を連れ出す大輝。
言われた通り、橋の席を六人分まずは確保する。
それから、大輝は陽菜に視線を向けて。
「よし、行ってこい。なんなら昼をいっしょに食ってこい」
陽菜は小さく、う……と呻いた。
「……いや、でもみんなで来たし……」
「ここで日和るとか気は確かか? やる気ないならやめたら?」
「こいつ、上から……」
「チャンスだろ! 向こうはひとりだ、今押せ、今! お前は弁当なんだから並ぶ必要もないし」
「う、ぐ……でも、こんな人がいっぱいいるところで……」
「誰も見てねえよ別に。わかってんだろ、そんなこと」
目立つ人間でも、いやだからこそ、食堂にいる程度でわざわざ衆目を集めないことくらい肌感覚でわかる。
「ここで誘えなくていつ誘うんだ。直接言うって決めただろ」
顔を近づけ、小声でやり取りし合うふたり。
陽菜は顔を赤くしているが、それが周りに見えることはない。
「うっさいな、わかったよ行ってくるよ……私だって、いつまでもヘタレてばっかじゃない」
「おう、行ってこい。どうせだ、その手作りの弁当を食わせてやれよ。胃袋を掴むと男には効くぞ。たぶん」
「適当言いやがって……」
「だって俺、あんま安藤くんと話したことないし。ほら来たぞ、行ってこい!」
ヘタレている陽菜の尻を、大輝は容赦なく蹴り飛ばす。
陽菜は大輝を容赦なく睨みつけたが、それでも確かにチャンスは逃せない。
ちょうどラーメンの器をお盆に載せて席を探している幼馴染みに、ゆっくりと近づいていった。
「お、こ、こ、こんにちは、翔太っ!」
「うおびっくりした!?」
いきなり声をかけて驚かれる陽菜の姿は、とてもではないがクラスの人気者には程遠い。
「あ、ご、ごめん。……いや、声かけたくらいで驚かないでよ」
「すまん……てか陽菜か。あれ? 学食だっけ陽菜?」
「あ、えっと、お弁当あるけど。……その、友達と食べに来るときは学食使うから」
「ああ……なるほど。なんか用か?」
そのまま手近な席を見つけて、翔太はとりあえずトレイを置いた。
視線がまっすぐ、『なぜ声をかけてきたんだ?』という疑問を陽菜に伝える。
陽菜の精神に5ポイントのダメージ。でも負けない。
「前、いいかな?」
「え……いいけど別に……え、なんで? 誰かと来たんじゃないの?」
「いいでしょ別に関係ないんだから」
――私が翔太と話したいのだからほかの人間は関係ない。
そういう意味合いの言葉が、けれど翔太にどう伝わるかに気が回らない。
「……あ、そう」
陽菜の幼馴染みである安藤翔太は、隣のB組に所属する地味な生徒だ。
そんな彼が、陽菜と幼馴染みである事実は誰も知らない。陽菜に隠しているつもりはないのだが、誰もそんなことは想像すらしないからだ。
ちなみに陽菜は、その事実を翔太のほうは意図して隠しているという事実を知らない。
「ラーメン?」
「うん。今日ちょっと、弁当用意すんの忘れて」
「ちゃんと栄養のあるものも食べないとダメだからね? 翔太、すぐジャンクフードやインスタントで済ませるでしょ」
「学食でまでいちいち言うなよ、そういうこと……」
「あ、ご、ごめん……えっと、私の分、ちょっと食べる?」
陽菜と翔太は幼馴染みで、お互いの両親が昔から忙しかったことを知っている。
ふたりに料理のスキルが身についたのはそのためで、中学生くらいまでは並んで料理もしていた。
「……いいよ別に。大盛りにしたし」
「あ、うん……そっか……」
話が続かない。彼と学校で話すことは、クラスが違うこともあってあまりなかった。
いや、最近ではそもそも、会話する機会そのものが少ないと言える。
「……あのさ、翔太」
このままではいけない。そんなことは無論、陽菜もきちんと理解している。
なんか離れた席から大輝の『早く言えバカ』的な視線も感じるし。
陽菜は意を決して、幼馴染みを誘った。
「あ、明日、その……暇!?」
「は? 明日? そりゃ土曜だし、別に予定はないけど……」
「だ、だよね! 土曜に予定とかないよねっ!」
「……嫌味か?」
「ちち、違う違う違う! そうじゃなくて、あの、もしよかったら――久し振りにどこか出かけない? いっしょに!」
「――――」
言った。言ってしまった。ついにデートに誘ってしまった。
息を呑む陽菜。
この誘いには翔太のほうも驚いたらしい。彼は怪訝そうに片眉を吊り上げて言った。
「……俺と?」
「う、うん。そうだけど」
「……なんで?」
「え!? いやそのほら、私も買い物とかしたいし、翔太なら気を遣わなくてもいいし、家も近いし、みたいな!?」
「陽菜なら、……別に俺じゃなくても、いっしょに出かける奴くらいいるだろ。櫻井大輝とか」
「え、なんで大輝?」
素で首を傾げ、訊き返す陽菜。
翔太は顔を背けて、なんでもない、と小さく答える。
それから。
「わかったよ。明日付き合えばいいんだな?」
「付き合――うんそう! 明日! 付き合ってくれれば! オッケー!!」
――やったっ!
陽菜は勝利を確信した。誘うことに成功したのだ。
女子から男子を誘って出かけるなら、それはもうデートである。翔太もそれはわかっているはず。
誘いが成功した時点で最大のハードルは乗り越えたと言ってもいいだろう。
いや、もちろん油断はしない。
鳴海陽菜に死角はない。
あとは当日、完璧なデートプランで翔太と遊び、いい雰囲気になったところで告白してオーケーを貰うだけ。
勝ったなハハハ!
「ありがと、翔太! それじゃ私、みんなのとこ戻るから。また明日ね!」
そう言って立ち上がり、陽菜は席をあとにする。
その様子を、麺が伸びることも気にせず、安藤翔太はまっすぐ見ていた。
離れた席まで戻っていき、なぜかA組の目立つ男子――櫻井大輝に頭をスパンと引っぱたかれている陽菜。
彼女は怒って何ごとか言いながら、櫻井大輝を蹴り返しているけれど。
――そんな表情を、自分の前ではもうずっと見せていない。
翔太は食べられる温度まで冷めたラーメンを無言で啜りながら、静かにそんなことを考えていた。
鳴海陽菜が安藤翔太に縁を切られるまで、残り三十時間。