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01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<3>

 シファ・アーマディー。トリゴナルBから移ってきた女の子を、団長はそう紹介した。

「アカデミアに編入できる頭があるなら、せめて臨時パスを申請して来てほしかったね」

 基本的に悪口しかいわない団長ギルヴィエラ・ハンは、初対面の相手にも遠慮なく言い放ち、団員たちを震えあがらせる。

「お騒がせしてごめんなさい」

 悪びれずにいって、シファはサイレに笑いかけた。不思議なことに、明るい照明の下でみると、シファの瞳は赤ではなくアクアマリンの水色だった。

 ここ〈オペラ〉のリハーサル室がサイレたちのいつもの練習場だ。団員たちは発声練習とストレッチをすませ、舞台上で見知らぬ女の子を囲んで車座になっていた。

「早くここに来たかったものだから。あの記事、読んだわ。『クロカワ市長公認オペレッタクラブ〈カンパニエ〉は』——」

「『メンバーの誰ひとりとして音楽を専門的に学んでいるわけではない一介のアマチュア・オペレッタ団体ながら、〈奇跡のボーイソプラノ〉こと、すでに十六歳の誕生日をすぎたサイレ・コリンズワースを擁し、星じゅうのクラシックファンの注目を集めている』。

 そいつがそのサイレ・コリンズワース。ホロか何かで見たことあんだろ」

 サイレは立ちあがって会釈し、腰を下ろした。平静を装っていたものの、やはりこの女の子には何かを揺さぶられる。クラシック情報マガジンに書かれた記事でサイレを知ったにしては、サイレのことはすべてお見通しというまなざし。透明な青、それなのにうかがいしれない瞳。一見ごく明るいアクア・ブルーなのに、海底までの距離がわからない〈毒の海〉のように、秘密を隠した透明。

「見たわ。でも、ホロより本物のほうがずっと素敵で、華奢」

「いくら歌手でも、デブのボーイソプラノなんて目もあてられんだろ。その声出るうちは体型維持しろよ」

「してますよ」

 サイレの返事と同時に、ギルヴィエラは、ぱぁん、と手を叩いた。リハーサル室の優れた音響効果によって、目の覚める音が響きわたり、団員たちは痙攣した。

「そろそろ見学者のことは忘れて練習するぞ」

「シファさん……は歌手で入団したんじゃないんですか? 今度の公演に出るんじゃ?」

「もう『オーレンダ』の配役は決まってる」

「そりゃそうですけど」

 この女の子がどんな歌をうたうのか、サイレは気になった。

「こいつはただのパトロンだ。なんたってトリゴナルBだからな」

「残念だけど、歌はまるでやりつけないの。わたしは応援したいだけ」

 そうしてまた、サイレにほほえむ。となりにいたイヴが、サイレの腕に抱きついてきた。

「だそうだ。模範的なパトロン様だな」

「おほめいただいて、ありがとう」

「パトロンって、あなたの親がですか?」

 サイレは質問する。アマチュアとはいえ舞台に立つ人間だというのに、問いかける声が緊張で細くなった。たえず鳴りつづける心臓が、邪魔をする。

「わたし自身よ」

「見たとこ、おれたちと同世代ですよね」

「わたしに興味ある?」

「はい」

 周囲から冷やかしの声があがる。イヴが立ちはだかって視界を妨げたが、サイレはかまわず彼女をみつめた。心臓はまだ「うごいて」いる。

 が、二度めのぱぁんという音とともに、鼓動は消えた。

「ナンパはあとで。今は練習だ、パトロン様、サイレ。本番まであと半年ないときてる」

 散った散った、といって、ギルヴィエラは団員たちを追い立てる。第一幕、第一場! というひと声で、サイレも他の団員も位置に走り、コレペティートルもピアノめがけて猛然と駆けだした。オペレッタの音楽稽古をつけるコレペティートルのファナは、クラブで唯一のプロ演奏者だが、団長に逆らえないのは学生団員と同じだった。

 見学者だけがひとり悠然として、位置についたサイレとすれちがいざま、

「ねえ、〈奇跡のボーイソプラノ〉さん」

 その蠱惑的な唇で言う。「〈奇跡〉を信じてる?」

 サイレの心臓がふたたびうごきだす。ふだんは存在も忘れている自分の心臓。その存在を思いださせてくれるもの、それは。

「信じます」

 サイレは答えた。「だって——」



 ——運命が、自分から会いにきてくれた。



 鍵盤が鳴る。

〈カンパニエ〉AT五六年度定期公演の演目は、喜劇「オーレンダ」。喜劇の導入は、タイトル・ロールによる華やかなアリアだ。転がるような前奏のメロディに誘われて、主人公の少女オーレンダが舞台に駆け出る。

〈——今日もあたしのために朝日はのぼるの!〉

 駆け出たのは、サイレだ。「少女」の第一声を、細く高くうたいあげる。〈あたしが西といったら西、南といったら南〉

 歌詞は十大トリゴナルの共通語であるユニバーサル言語ではなく、日常語としてはトリゴナル以前ずっと昔に滅び、楽劇作品の歌詞としてのみ生きのびた言語だ。美しい音楽とともに今もこうして〈毒の海〉の底で生きつづける「オーレンダ」は、その名をもつ「少女」がひとりの「少年」と出会ったことで巻き起こる騒動と、ふたりの純愛のゆくえを描く人気のオペレッタだった。

〈みておいで、あたしの指さすほうを〉

 ギルヴィエラの演出どおり、サイレは客席を指さした。今は、演出家であるギルヴィエラひとりしか座っていない客席。ここでファンの女性たちが声にならない悲鳴をあげ、男たちは嘆声をもらして、どちらも終演後に大いに寄付金をくれる、というのがギルヴィエラの言。

〈男なんて簡単、女だって簡単。あたしの美貌と気だてのまえには、月だって隠れる。だって〉

 ここで、サイレは顔つきをがらりと変え、声もまるで変えてしまう。スカートをたくしあげるマイムと、男の低い声で、

〈ほらごらんよ——あたしは男!〉

「少女」オーレンダは、オーレンドという名の少年なのだった。〈だけど、本当のことには誰も気づかない。みんな本当のことなんかどうだっていい。男も女も、犬も猫も。小夜啼鳥だけが、あたしの悲しみを知っている〉

 オペレッタは基本お約束のオンパレードだから、オーレンドはさる貴公子の落胤で、後継者問題による危険を避けるため女装しているという設定だ。

 すでに十六歳をすぎ、変声期もすぎたサイレは、地声は低かったが、高音の歌声は保たれていた。男の低声も女の高声もこなし、通常のボーイソプラノより大人びているサイレは、十五歳をすぎたころから〈奇跡のボーイソプラノ〉と呼ばれている。

〈小夜啼鳥が眠る朝に、あたしは歌う。ぼくはここだよ。ここにいるよ〉

 さびしさをたたえて、ピアニッシモ。〈ここにいるのに……〉

 入れちがいで、舞台上手から合唱。主人公オーレンダはいったん遠景になり、街の人々が舞台に登場する。街の人々のうわさはオーレンダのこと、そしてもうひとりの主人公のこと。これがイヴの役、つまりオーレンダとは反対に本当は少女だが男装している少年だ。

 舞台上手からイヴが顔を出したとき、

「ストップ」

 例のぱぁんという音で、ギルヴィエラが演奏を止めた。

「やる気だして歌ってますけど」

 序盤でストップがかかる理由はいつも同じだ。サイレは言われるまえに言う。

「嘘つけ。なーんも考えてない、なんも感じてないくせに」

 ギルヴィエラは断言する。「オーレンダはさびしいさびしい言ってんだろ。余裕しゃくしゃくで歌いやがって」

「オーレンダは男なのに女のコとして男を手玉にとる、自信満々で余裕しゃくしゃくの女のコでしょ。余裕なかったらダメだと思いますけど」

「余裕のなかにありったけのさびしさつめこみやがれ。本番と練習は別とか言うなよ。練習でできないことが、本番でできるわけないだろうが。万が一できたとしても、そんな〈奇跡〉頼みに、団員全員道連れか? あ?」

「ありったけのさびしさって何です? 自分がわかりもしない指示ださないでくださいよ」

「うるせえ、アタシの性格に合った演目ばっかやれないんだよ。いいか、今年度の市からの援助は〈奇跡のボーイソプラノ〉を使うのが条件だ。ボーイソプラノを使うってことは、ボーイソプラノの安定しない危うさが主な魅力になった演目になるわけで、さびしさは重要な感情なんだよ。こうだ! 〈ぼくは、ここだよ。ここにいるよ。ここにいるのに……〉」

 その言動からは想像もつかない繊細な歌声が、ギルヴィエラの唇からあふれる。こうみえて団長はかなりの歌い手だが、性格に合わない役を演じるのがいやで、演出側にまわった経緯がある。

「気色悪」

「うるっせえ。いいからやれ」

 サイレは素直にやりなおす。歌に合わせて、コレペティートルがピアノ伴奏を再開する。ギルヴィエラは二度は止めない。顔はあからさまに不満げで、改善されていないのは明らかだったが、サイレは見なかったことにした。

 練習を終えると、隅で見学していたはずの人をさがす。視界の端では、ラケルタがクエン酸入り飲料のボトルを配ってまわっていた。ラケルタは歌手ではなく、裏方として団員をサポートしている。

「ラケル、のどかわいたー」

「お疲れさま、イヴ。今日のユスティナ、よく声でてた」

「えへへー」

(いない)

 サイレはもう一度リハーサル室を見渡した。いつも静寂を保っている自分の心臓が、ふたたび騒ぎだすのを期待した。

 心臓は静かなままだった。ラケルタからボトルを受けとり、ストローでひと口飲む。水分とともに、低温の静けさがからだにひろがっていく。

「サイレ、お客さんだよ」

 声をかけられて反射的に駆けだしたものの、扉に立っていたのは、その人ではない女の子。サイレ君、と小さな声で言う。

「今日、いいかな」

 心臓はうごかない。それでも、顔だけは笑う。

「もちろん」

「サイレ、ただれてるー」

 唇をとがらせたイヴを振り返らずに、サイレは〈オペラ〉をあとにした。

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