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03. 理論上、絶対<2>

「マリオン——」

 脳裏にひらめいた想像を、エンジュは自分で即座に否定し、駆けだした。マリオンは動かない。手をのばし、彼女に抱きつく。

 血のにおいが、鼻を刺す。マリオンの金の髪には、血がこびりついていた。

「どうしよう、みんなが。マリオンは……」

 言いかけて、エンジュは口をつぐんだ。だがこの手を離したら、もう戻れなくなる気がする。


 ——だめだ、離れて!


 声が聞こえた気がして、エンジュは背後に全力で飛んだ。

 四枚の刃が、砂地をえぐり、跳ねた。激しくうねって、間髪入れずその主のもとに返る。

 砂煙が立ちのぼり、主の姿を隠す。

「マリオン……」

 砂煙が徐々に晴れ、そのむこうから、血にぬれた花嫁がやってくる。

 ふふ、と笑みをもらして。花嫁は、たしかにほほえんでいた。花嫁の幸福そのままの笑みで、顔も、髪も、白い衣装も、すべてが血にまみれていた。手足には戦士のあかしであるアルバ・サイフ。

「鍵をありがとう、エンジュ」

 と、マリオンは告げた。鍵——〈星々の庭〉の鍵——それは、スエンからエンジュだけに与えられた歌。

「……いつからなの。いつからあなたは」

「最初から。言ったでしょう? ほんとうはわたしは」

「冗談だと思ってた。何をいっているのか、わからなかったから。フリッツは——」

 エンジュは問う。その名前を口にすると、からだにひびが入った気がした。「フリッツは! 他のみんなは? あなたはアルバ・サイフをつけたままで初夜の天幕に入ったの?」

「当然、そうしたわ」

 と、マリオン。「そう、だれも正気を保っていなかった。だから、わたしが直接手を下す必要があったのは、騒ぎに染まらず、しかも優れた〈ティンダルの馬〉である彼だけ。まず、彼を殺した。あとは合図しただけよ、簡単ね」

 エンジュは拳を握りしめる。

 けれど、マリオンは強い。

 自分がきちんと〈ティンダルの馬〉としての訓練を積んできていれば、いまマリオンに戦いを挑み、ティンダルの敵を討つことができた? それ以前に、結婚相手を決める月例大会で、フリッツを獲得することができた? 初夜の晩に、マリオンをフリッツのもとに行かせないために、思わず歌のことを口にするような、弱い人間にならずにすんだ?

 しかし、そういう弱い自分でなければ、スエンや謡い家の人々と出会うこともなかった。フリッツに恋をすることも。

 立つべくして今の場所に立っている。

「あなたは、だれなの?」

「わたしは——」

 言いかけて、マリオンはふっと笑った。「〈メサウィラの黒ぶどう〉というのよ」

「〈黒ぶどう〉……」

「古くから『メサウィラ人の奴隷は買うな』といわれているの。一見ただのブドウにみえる。でも、知らずにそれで葡萄酒をつくれば、取り返しがつかない。黒ぶどうの存在が、葡萄酒を毒に変えてしまう。

 メサウィラの帝王家は、たったひとり帝王になる者以外の全員を奴隷として追放する。帝王の命令を達成した者だけが、メサウィラに帰還することが許される。わたしの使命は——」

「〈星々の庭の歌〉……?」

「そう」

「あれは、何なの? わたしは……」

 なぜ、スエンにあの歌を与えられた?

 スエンは、あれはエンジュの歌だと言った。そのときが来たから教えるのだと。

「マリオンは知っているの? 〈扉〉をあけると、何が起こるのか。メサウィラがほしいものは〈扉〉のむこうにあるの?」

「黙れ」

 マリオンが、軽く浮かびあがったようにみえた。

 次の瞬間、蛇のように、アルバ・サイフがうなった。一の刃から順番に、右手、左手、右足、左足——エンジュの四肢が、貫かれた。あ、と少女は声をもらした。

「わたしは敵よ。おまえの敵」

「……仲間だった」

「話を聞いていた? わたしは最初から敵。いえ——ものごとのはじまりから、わたしたちは敵同士なの」

 マリオンは無造作に手足を動かした。四枚の刃が同時に引き抜かれ、エンジュは声にならない叫びをあげる。

「ねえ、逃げなさい。あの歌を知る限り、あなたは追われる。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、もっと強くなりなさい。強くなったあなたを——わたしが殺すわ」

 それで、終わりにしてあげる、と彼女は言った。

 去ろうとする金の髪の少女を、エンジュは追いかけることができなかった。砂煙のむこうにマリオンが消えるまで、ただ目で追っていた。

 気づいたとき、からだはほとんど動かなかった。四つの傷から流れ出る血が、体温を奪いつつあった。無我夢中で手をのばした先に、ルルの頭があった。

 ルルはエンジュの指先をぺろりとなめると、しきりと頭をエンジュのからだの下に入れようとした。うながされるまま、重いからだをルルの背中にのせると、ルルは走りだした。だが、力なくその不安定な背中にのっていたエンジュは、無惨に転がり落ちた。

 エンジュはルルの背中に再度よじのぼると、今度は首にしがみつく。手足の痛みが、一瞬エンジュの意識を現実から遠ざけたが、こらえた。巨大なトカゲは駆けだした。

「ごめんね、血がついちゃうね」

 エンジュはルルをなでる。なでると、腕の血がトカゲの土色の皮膚にひろがってしまった。が、それを拭おうとすると、ますますひろがった。

「どこに行くの? どこに行けばいいか、ルルはわかるの?」

 ルルは答えない。答えずに、すばやく力強い足どりで、ティンダルの柵を飛びだしていく。

 柵の外は〈草の海〉。〈毒の水脈〉のうえに横たわる、どこまでも広い草原。


〈神々の御世、星々の下なる丘にて……〉


 少女は口ずさむ。自分だけの歌を。うつろな眼、力ない唇で。

 押し寄せてくる痛みが、少女にそうさせた。これまでも、歌が彼女に生きる力を与えてきたように。力をくれた心やさしい老婆は、もういない。

 白い早朝の〈草の海〉に、星が降ってくる。

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