契約結婚
両親を失くした日を境に私の心は凍り付いた。
顔も知らない親戚が波のように訪れては、領地と財産を狙って結婚を迫って来たからだ。
時には使用人を潜り込ませて弱みを握ろうとさえしてきた。欲に眩んだ人間というものは本当に恐ろしい。
「ご覧になって。フローレンス伯爵令嬢よ」
「まあ、高そうなドレスね」
「氷の令嬢ですって」
噂好きな令嬢がこぞって囁き合う。好奇の目に晒されながら悠然と歩みを進める。
こうして好きでもない社交場へ繰り出すのも、全ては身を守るためだ。私の評価が下がるほど領地の安全は保たれる。
「レディ。一曲踊って下さいませんか」
「まあ、物好きな方ですこと。けれど結構よ。踊るような気分ではありませんの」
相手は男爵の次男だ。冷たく言い放つと愛想笑いを浮かべたまま固まる。
私は嘲るように鼻を鳴らし、身を翻してバルコニーへ向かった。
「そこの貴方」
通りがかった給仕の青年を呼び止め、赤ワインのグラスを受け取る。
人の群れから外れて開けた空間に出ると息苦しさが和らぐ気がした。
居丈高な振る舞いも、冷ややかな笑みも、全ては身を守るための演技だった。誰も近寄らせなければ心を煩わせずに済む。
「……美味しくない」
グラスを煽って小さく呟く。赤ワインは苦手だがこれも役作りの内だと思えば耐えられる。
「好きでもないのに飲むのか?」
不意に差した影に顔を上げた。見知らぬ男性が不思議そうに私を見下ろしている。
私に近寄る人間など今は滅多にいないからと油断していた。胸の内で叱咤して気を引き締める。
「気が向いただけですわ。私はこれで」
不遜に見えるように眉を吊り上げる。扇で顔を隠すのも忘れない。表情を作るのは得意ではないからだ。
「氷のレディ」
立ち去ろうとする私の前に立ちはだかり、堂々とそう呼んだ。思わず顔を上げる。
面と向かって不名誉な通り名を呼ばれたのが意外だった。
「わざわざ馬鹿にしに来たのかしら。随分とお暇なようね。不愉快だわ」
彼の言うことは正しい。少しも気分を害してなどいないが、大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
扇で顔を覆い隠したまま、鋭く睨み付ける。
「通して下さいな。無駄な時間を過ごすのは嫌いですの」
大抵の男性はここまで言えば立ち去るのだが、一向にそんな気配を見せない。
「疲れないか?」
「ええ、そうですわね。貴方とお話するのはとても疲れますわ」
「無理をしているからだろう」
その言葉に心臓が跳ねる。つい後退りしそうになり、何とか踏みとどまった。
得体の知れない男だ。これ以上の長居は得策ではない。
だが、立ち去ろうにも男が邪魔で身動きが取れない。
「しつこい男性は嫌いですの。退いて下さいませ」
「……俺を覚えていないか?」
安っぽい口説き文句だ。嘲笑ってやろうと顔を見上げて息を詰まらせる。
向けられる視線があんまり真剣で驚いたのだ。彼が片手で目を覆い、指の隙間から瞳を覗かせる。
「あ……」
思わず声を上げると、嬉しそうに口元を綻ばせる。
「久しぶりだな、ジーン」
呆気に取られる私に微笑みかけたその人は、 青みがかったグレーの瞳を柔らかに細めた。