壱幕【そして物語は始まった】
(最悪だ・・・)
一刻前までは雲一つなかったはずなのに
いつの間にか、灰色になった空から大粒の雨が溢れ出したのは
西野が取材先を後にして、程なくしてからだった。
取材、なんて言えば聞こえは善いが
駆け出しの新人記者に与えられた仕事等、精々大見出しの間に箸休めの一枠でしかない
否、その一枠ですら明日には切り捨てられるかもしれない
――ザァァァ
程なく鈍色の滴が体を濡らしていく
「・・・最悪だ」
先刻、心で呟いた悪態を口に出す
出した所でこの自然の摂理に抗える訳もないのだが
兎に角、折角上げた原稿だけはせめて濡らさぬ様
上着に包み、しっかり抱えて西野は家へと駆ける足を速める
体に重くへばりつくシャツが煩いが気にしてはいられない
土手を抜けて、橋を渡ればもうすぐ雨を凌げる屋根が見える、
その時だった
人とは十中八九、見てはいけない時に、見てはいけないものを見てしまう生き物である
何時もなら、気にも止めない、土手の下の雑草が茂り荒れ果てた川原
ふと、どうしてだか落ちた視線
その先にあったのは
「鴉・・・」
真っ暗な鴉が群れを為して何かに多寡っている
何も珍しい光景ではない
猫や犬ならまだ良い方だ
行き倒れ、等この物騒な帝都では決して新聞の見出しを飾る出来事ではない
然し、それは多寡っているのが普通の鴉の場合だ
西野にははっきり判る
判りたくも無いが、自らに備わった忌まわしき能力が告げる
『在れは、この世のものでは無い存在だ』
妖、と呼ばれるそれは
彼がこの世で一番忌む存在
あの日、まだ何も出来ない子供だった自分から全てを奪った
憎んで、尚足らない
忌まわしき存在
気が付くと、足は川原へと向かっていた
妖と関わった者は、
妖と相対して尚、生き残った者は
それと引き換えに手に入れる異形の能力故、忌み子として恐れられる
知られてはいけない、悟られてはいけない
自分が、あの夜の生き残りである事は
そう
関わってはいけないのだ
万が一、この場を、異形を使う自分を誰かに見られたら?
然し、頭に浮かんだ理性は妖を憎む己の激情の炎に灰と化す
「何してんだよ」
鴉が、自分達を認識出来る筈のない人間の声に動きを止める
遠目から見れば普通の鴉でも
腐りかけた眼と、血の様に赤黒い羽、裂けた嘴と異常に発達した爪は
明らかに、この世のものではない
――御先鴉
白い服の男達は、確かそう呼んでいた
「去ね、お前等の在るべき世界に還れ」
存在ってはならない存在がこの世界の均衡を崩していく
沸々とたぎる怒り、右手が熱くなる
「ギャァッッ」
不意に、一匹がその嘴をばっくりと明けて西野に襲いかかった
あの時、あの夜は
何も出来ない子供だった
泣いて震えて、悪夢が過ぎるのをただ待っていた
だか、今は
「破ッッ」
かざした右手から放たれた光が、御先鴉を貫く
妖に襲われた者だけが得る、妖を滅ぼす能力
人は、その異形の力を畏怖と軽蔑を込めて『業』と呼んだ
――ィギャァァァア
この世のものとは思えない絶叫を残し、鴉の体は灰と化し、叩きつける雨に霧散した
それを見た残りは一斉に羽ばたき、灰色の雨の中に消えていった
「これ・・・」
鴉達が群がっていた後にあったのは
ボロボロの姿で横たわる
少女だった
出血こそ無いものの、顔に血の気はなく
栗色の髪は泥に塗れ、痛々しく雨に打たれていた
「おい、大丈夫かッッ?!」
駆け寄って触れた刹那、悟った
「こいつ・・・黄泉姫か」
すでに生気のない体はこの世に未練を残して逝った魂が造りだした想いの塊
契約をまだしていないのだろう
辛うじて形を止めているものの、弱々しいそれは今にも雨に溶けて消えてしまいそうだった
「あ゛ぁ〜〜今日は最悪だッッ」
質量のない体を抱き上げる
誰かが見れば、泥まみれで独り芝居をしている自分はさぞかし気違いに映るのだろう
どうせ、雨と泥でボロボロの原稿は使い物にならないのだ
半ば自棄糞気味に西野は未だ目を覚まさないこの拾い物を家に招き入れることにした
叩きつける水煙で
そんな西野の姿を見た者は誰もいなかった