鏑木
今日も今日とて主の仕事について参ります。
ひどい雨ですが、私は雨がとても好きなのでございます。
人や猫は雨が嫌いな嫌いなようですが、私の身体は水が通り抜けてしまうので、しとしと洗われているようで心地が良い。
雨が身体を通過する心地よさは人には分かりますまいが、プールが気持ち良いのに似ているかもしれません。
水はこの世に在るものにとって切っては切れないもの。
人外にも通じるところがあるやもしれませぬ。
主人はというと、雨降れば不機嫌、と絵に描いたような不安定ぶりを発揮しておいでで、その肩にはやはりぐったりとチャコがしなだれてございます。
猫を雨の日に外へ放り出すなど鬼の所業だ、と何やら文句をいっておりましたが如何せん主人の言いつけには逆らえないのです。
主の仕事は「営業」と呼ばれておりまして、何やら怪しげな用途の分からぬ機械でしたり、特殊な金属の入った首輪であったり、果ては水など、様々なものを家々に売り歩いておるのでございます。
「セルフホワイトニングの据え置き機だよ。」と申しておりましたが、主自身が使っていたところなど、ついぞ見たことがございません。
其の仕事自体はさほど重要では無いようでございました。
主にはもう一つの仕事があるのでございます。
よく「裏」と称しておられまして、「営業」は此の裏の仕事をこなすのに便利な表の顔なのだ、ということでした。
私がお手伝い致しますのは、此方の裏の仕事でございます。
人の好さげなご婦人に高価な水を売りつけている時などは、人外の私から見ましても主人が胡散臭い輩に映るのですが、裏の仕事に措いては悪徳官僚も真っ青な非道振りでありました。
主人の仕事が何たるやを語るにあたって、鏑木の事をお話せねばなりますまい。
町はずれの古民家を改装して古本を扱う店を経営する、独り身の男なのですが、此の鏑木という男は胡散臭いを通り越して「危ない」と思わせるような輩でありました。
主人は非道ではございますが社会という範疇に染まれるお人でありますので、生きるのにさほど苦労はしないようすでございます。
一方鏑木は通常の人間が「関わりたくない」と思う類の男でございました。
この男のとある癖に問題があるのでしょうが、冷徹な主人に言わせると「性癖と人間性は連動してる」らしいので、其の理論に沿うなら本人に問題がある、ということなのでしょう。
此の日も鏑木は古本を売っている自宅の一階にはおりませんでした。
そもそも此処が自宅なのかすら不明でございますが、寝泊りもしているようなのでほとんど此の古民家に住んでいるといって良いのでございましょう。
鏑木の古書店は人目につかぬ路地裏で、まるで営業などしていないかのように佇んでおります。
中に入るとひっそりと静まり返って人の気配がありません。
砂っぽい店内は古い蛍光灯に照らされて、人間にとってはとてもじゃないが快適でないでしょう。
どこか此の世の空間ではないような、息の詰まる静けさが人外である私の身にもしんしんと伝わって参るのです。
鏑木の姿が見えず、二階から
ぎし、ぎ
と物音がしたので私どもは一斉に天井を見上げました。
ぱらぱらと硬い埃も落ちてまいります。
主人が舌打ちいたしました。
「あの阿保は昼間っから…。」
此のセリフに私とチャコはこっそりと目を見合わせました。
私は幾度か鏑木に会ったことがあるので…といっても鏑木は私を見ることが出来ぬので此方が一方的に知っているだけでございますがね、この男に病的な性質があるのを知っておるのです。
人には様々な性質あれど、拒絶され嫌厭されるものも在るのは確かでございます。
十色な種族あれど、面妖なのは我ら人外ではなく人のほうではありませんか。
だから私は、人間が真昼間からするべきではない行為に勤しむ此の男に、いたく興味を持っているのでございます。
彼の男は、いつもこの店の二階に籠っておりました。
いつ来ても籠っておるので、この男が本当に古書に目が利くのか、未だ不明なくらいでございます。
乱雑に積みあがった雑誌の上に上着を放り投げると、主人は急な階段をぎしぎし上って行きます。
ゆったりと後を追うと、上った先には半分空いた襖があり、先ほどよりも明確にきしむような音が聞こえてまいります。
ぎ、ぎゅっ、ぎちちち
主人が音もなく襖を開けると、その部屋は薄暗く黴臭く、人の汗と化粧の匂いが混ぜられ蒸されたような香りに包まれておりました。
ほとんど切れかかった豆電球が天井から下がっており、私は芥川という作家の書いた釈迦の慈悲の話を思い出しました。
此の場合、誰も其の慈悲には捕まらないのですが、照らし出された光景は地獄にあってもおかしくないでしょう。
女が、捕らえられた大魚のように、足を吊るされておりました。
しかし逆さになってはおらず、上半身は机の上にうつ伏せて置かれているのでございます。
腕は後ろ手に縛られており、白い靴下以外は身に着けていないのでありました。
女は無理な体勢をさせられながらも、目の前の鏡を黙ってじっと見ております。
切りそろえた黒髪が紐暖簾のように垂れ下がってよくは見えませんが、切れ長の美しい目を持つ女です。
苦しい恰好を何とかしようと女がもぞもぞと動くたびに、足をつり下げている古びたロープがぎゅうぎゅうと音をたて、電球のか細い灯りに照らされた女の尻が丸い影をゆらゆら描くのでした。
その小さな尻をがさがさした手で撫でまわしている男がおりました。
女の横に股引だけをはいて座っておりますが、何も言わずにただ尻に何かを塗りたくっているのであります。
これが誰あろう、鏑木五次でありました。
「団鬼六の真似事かぃ?」
一切の躊躇もなく主人が声をかけながら部屋に入ります。
鏑木は主人に気が付いていたようで、太い眉を八の字にしてゆったり主人に顔を向けました。
「おぅおぅ、樟の字よ。
俺ぁ鬼六より久作派だぜ。」
主人が来たとて鏑木は女の尻から手を放しませぬ。
「いやね、こいつがどうしても…というからだな、無心されてしまっちゃぁ可愛がってやらぬわけにはいくまいよ?」
主人は女には目もくれず、御器喰りでも見るような眼で鏑木を見下ろします。
「そんな派閥が知らないよ。
仕事があるんだろ?。
お宅のSMショーを見に来たわけじゃないんだよ。」
「わかってねぇな樟よ。
こんなもんはSMとは言わねーぜ。
この尻が一番可愛く見える角度を探求してんだ、ほら、こう吊り下げることによってだな、足の付け根にできる尻のラインが特別際立って見えるだろうが。
創世神ってもんがいるなら、このラインを創った事はアカデミー芸術賞ものだと思わんか。」
鏑木が其のラインとやらに沿ってバターでも塗るように指を滑らせたので、女が黙って尻をもぞもぞ動かします。
主人は見向きもしません。
「風邪ひくよ。」
などと言いながら棚を漁ってカップを探り出し、勝手にティータイムを始める始末。
チャコはいつの間にか女の背中に陣取って暖を取ります。
主人もチャコも慣れているようす…というより此れは無視を決め込んでいるような気がいたしますが、私はこの男が何のために女の尻を愛でているのかよく分からないのであります。
鏑木の側に立って哀れな女を眺めてみるものの、人外には人間の美醜などあまり響きません。
人ほどではないものの、私にも喜怒哀楽は携えてございますので、人の性というものも理解してみんと思ってよく本屋に入り浸っては女の裸を食い入るように眺める男たちの後ろから、こっそり眺めてみたりしたのですが、見たいという割には所々ぼやけて見えぬところなどがあって、見たいのやら見たくないのやら。
どうも、其の狭間に置かれるのが人の欲を掻き立てるのか。
己が性をわざわざ掻き立てる手助けのために、こうした本や映像がいたるところで回っており、男たちは隠れて収集しているのだそうです。
しかし此の様に、本の世界を再現したりするのは少々珍しい事のようで、鏑木はどうも人の中でも一線超えた存在らしいのでございます。
それに、昼日中から此の黴臭く薄暗い部屋でむさ苦しい男と閉じこもって天井から燻製肉よろしく吊られるがままになっいる女も女でございます。
嫌がる素振りも、暴れてみせることもしないので、女も望んで吊られたのでしょうか。
であれば、他人はともかく人外の私がとやかく思うことも無いのかもしれません。
ひとしきり納得した後、私は静かに主人の後ろの壁際に佇むことにいたします。
「興の無い奴だな。まぁいい。」
鏑木は冷たくあしらわれても意に介した素振りも見せず、鼻を鳴らして立ち上がりました。
女は放置でございます。
見ていると、鏑木はロープの束や赤いマニュキュア、女性用の整髪油など、わけの分からぬ物が雑然と置かれた机に向かい、引き出しから長方形の手鏡のような物体を取り出しました。
街でたまに見かける〝タブレット〟なるもののようでございます。
「じゃ仕事の話でも始めるか。」
にやっと笑うこの胡散臭い男こそが、主人の真の生業の要となる仲介屋なのでございます。
***
鏑木がすこしおぼつかない手つきで鏡に指を滑らせると、表面が光って何やら映し出しました。
主人が持っているのはもっと小さな機械なので、よく見てみたくなった私は鏑木の後ろへとふわふわ漂います。
この世界に生まれてから物珍しいものばかりですが、この機械は人間が生み出した物の中でも繁栄率が高く、一人一台、多ければ二つ三つは持っているというのですから驚くべきことです。
鏑木の慣れない手つきに導かれて、鏡は本物と見まごうような絵を映し出しました。
「市内にある美容室の従業員だ。
その中の誰かはまだ特定されていない。
が、女ではないかという話だ。」
鏑木の鏡の中に映っているのは明るい清潔そうなお店の絵でございます。
なんらかの広告媒体であるらしく、サービスの値段を連ねた文章がつらつら続いているのでありました。
木製の古い丸テーブルを挟んで主人の向かい側に座ると、鏑木がおもむろに説明を始めます。
「これが一番最近撮られた従業員の集合写真だ。」
鏑木が見せたのは若い男女が十名程、並んで此方を見て笑っている写真でございます。
主人と私も机に置かれた鏑木の鏡をのぞき込みました。
顔は若いのに、老婆のような白髪をした女性もいれば、真っ赤な髪を逆立てたような青年も並んでおります。
主人の周りにはほとんどいませんが街などに出るとよく見かける、髪を染色している者たちでしょう。
美容室とも言っていたので染色を施す側の人間かもしれません。
「美容室? つまらないね。
キャバクラとか病院とかが良かったな。」
不満げに鼻をならす主人。
対して鏑木が女の尻をペチペチ叩きながら不敵な笑みを浮かべます。
雨が屋根を打つ音と似ている、と私は思いました
「贅沢言うな、意外と大物かもしらんぞ」
鏑木が主人に仕事を持ってくる時は、大概がこのような店舗や会社の名前をあげるのです。
組織というものがよく分からなかった時分は家名のようなものと思っておりましたが、「人というものは単独で生きていくことはできないのだ」と主人に教えられました。
何かを生産するために徒党を組み金を稼ぐ、そのサービスに金を払う者もまた何かを生産している。
人間とは巨大な生き物のようでもあります。
鏑木が女を鰹節のごとく天井から吊るすのは一体何を生産しているのかわかりませんが、これも何か意味があってのことなのでしょう。
「で?依頼はどこから?」
主人が鏡を指で何度もこすります。
「堀川って興信所だ。
幽霊が見えるとかって叔父貴の寺に泣きついたんだと。
美容室の店長の嫁がな、旦那が浮気してるみたいだからを調査してくれってんで洗ったら・・・。」
「浮気相手らしき女の周りで不審な事故…か?」
鏑木が肯定と思しき表情で肩をすくめ、主人は鏡を突っ返しました。
興信所とはたしか人間の調査をする探偵なる職業の者がいると記憶しております。
「単純に嫁がそうなんじゃないのか?」
「そんな単純ならお前さんを呼んだりしねぇだろ。」
鏡で鼻を押しつぶされながら鏑木が付け足します。
「あとな、叔父貴が言うにゃ今回は蛇くさい、とさ。」
女の背中で眠りこけそうなチャコを抱きあげていた主人が、眉をひそめました。
「女と蛇?そりゃいつもの額じゃ足りないと思うけど?」
「まぁ銭の話はもうちっと踏み込んでからだな。
とりあえず探偵んとこで詳しい話聞いて来いよ。
多少のメンツ揃えることになるかもしれねぇだろ。」
「単独の方が話が早い。」
「そりゃ分け前は多い方がいいだろうがな。
この前も三谷の喫茶店の件、無茶苦茶やらかしたって聞いたぜ?
俺的には面白いがな、お上は気に入らんかったろうな」
「後片付け代まで貰ってないからね。
目的のものが狩れたら僕の仕事は終わり。」
どうやらこれも生産に関する話のようです。
生産にも人間各々の方針や信念というものがあるらしく、同じ目的に向かっていても進み方が違う事もあるだとかで、まったくもって人間とは難儀な生き物であります。
いっそ同じ精神を共有してはどうかと思うのですが、そういったことは不可能なのだとか。
練度があれば周囲の人間の思考を観察して推測することはできるそうですが、できない者は多いと主人は言います。
命令されずともテレビに映る女と同じ格好をしてみたりはできるのに不可解ですが、「利益」なるものにも左右されるのが人間だとチャコが申しておりました。
「ま、今んとこ面白そうなのはこれだけだからよ。
やるだろ?お上と探偵には連絡しとくぜ。」
紹介だけしたら己の仕事は終わりだとばかりに、鏑木が女に何かを塗りたくり始めましたので、我らは辞することに致しました。
主人も鷹揚に頷いて部屋を後にいたします。
主人が戸を開くなり女が小さく叫びはじめたようです。
ひぃ かゆ かゆいぃ
鏑木は一体何を塗り込んだのでしょうか。
最後に私が女を見ると、女は身を捩っておりました。
泣いているのか笑っているのか、私にはわかりませんでした。
主人公ってどっちなんだろう