草陰
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩々然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。
周たるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
『荘子』齊物論第二
己を言い表すのに雅な表現をするならば、「夏の風物詩」が適当でありましょうか。
私は人外なのであります。
古くは「物の怪」と呼ばれ、「妖」と恐れられてきた類でございます。
意識を持つ以前の記憶は無いので、己が人であったのか、生き物であったのかすらわかりません。
故に私を「霊魂」と呼ぶのは適当ではないでしょう。
私には恨みも執着もございませんので。
しかし実体が無い、という点に措いては似通っているやも知れません。
私の主人は、私を表すのに『影』という言葉を用います。
主人はれっきとした人間でありますので、後ろが透けて見える、なんて事は起こり得ません。
類稀なる猫である我が友チャコに至っては、《動いた時しか視えやしない》とぼやく始末でございます。
夜の生き物である彼女にとっては、日の没した後のほうが私を見つけやすいのだそうです。
彼女が私を見つけた時も、夕暮れ時の薄暗い刻でございましたのを今でもはっきり覚えております。
***
路傍に生える雑草の影で、私は生まれました。
しばらくの間は自我もなく、コンクリの隙間から申し訳程度に頭を垂れるエノコログサの横で、ただ「在った」だけでした。
彷徨うこともせず、ふわふわと揺れるだけの日々。
世界は郊外の住宅街にあるこの路地裏のみ。
そこを行き交う近隣の人々や野良動物だけが、動きを持つもの。
しかし私に気付く者はいない。
私の意識の前を、色とりどりのランドセルを背負った子供たちが往来し、老若さまざまな大人たちも足早に闊歩しておりましたが、見下ろして注意を払う者など皆無でありました。
まだ概念も定まらぬ思考の中で私は孤独なのだと勝手にしょぼくれたものです。
紐につながれた犬たちが時々私を見つける事がありました。
動物たちの多くが私に気付くようでした。
この矮小な生き物は人よりも愚鈍だが、敏感で意外に表情豊かでございます。
私に気付くとギョッとして後ずさり、逡巡した挙句うるさく吠えたてるのが常でした。
とはいえ吠える他に成せる事もなく、私がニヤニヤしながら縦に伸びると恐れて一目散に駆けて行き、隙を突かれて紐を手放した人間達が無様にその後を追うのを見る、というのが毎日の楽しみなのでした。
暇を持て余してそんなことを数十回も繰り返すと、私のおる道を通る人間が多く減って行きました。
後に聞いたところでは犬の散歩チームの間で「怨霊の道」などと噂が流れていたんだとか。
その結果夜は子供のみならず、若い女性も私のいる道を通らなくなる始末でございました。
時々考えたものです。
あの犬たちは人間とどこに行くのだろうか。
いや、待て。
そもそもあの角をに消えていく人々は、どうなったのだろうか。
あの先に何があるのだろうか。
身体を伸ばしてみるものの、曲がり角の向こうは見えない。
かといってエノコログサから離れる勇気も無く、またフワフワ揺れるのみでした。
***
そんな折、灰色の猫が私の前で立ち止まったのです。
尾の先端と眉間のみに白い星屑のような模様を持つ、美しい猫。
数回見た猫たちは犬よりも私に冷たかった。
猫たちは、ほとんどが塀の上を興味無さげに走り去るか、もしくは私の隙を見て家々の隙間に走りこむのみで、犬たちのように吠えたける事もしないものなのだが、この猫は悠然と私の前に立ったのでございます。
《なんだ、珍しいヤツがいるな。》
人間以外の生物が言葉を発したので驚いて黙っていると
《お前、聞こえてるのか?耳が見えないんだが。》
明らかに私に話しかけているようなのです。
さて困った事だ。
なにせ私には耳はおろか、目も口も、顔すらないのです。
質問は理解し得ても答える事ができない。
しかし私はどうしてもこれに答えたかったので、咄嗟に人間が肯定の意を表す時のように、身体の頭頂部を上下に振ってみました。
すると
《ほう、一応通じるようだな。》
灰色の猫は少し満足気な様子で、私の前に腰を落ち着けました。
《その様子では喋れないらしいな。
あたしも実際に喋ってるわけじゃないがな。》
私が返答できないために、ほぼこの灰猫の独り言なのですが、特に意に介した様子もなく灰猫は鷹揚に話し続けておりました。
《ここらでは話の通じる四本足がいなくてね。
人間共に飼いならされて言葉も忘れた阿保ばっかりさ。
あたしの主も楽しい話のできる奴じゃないからな。
退屈してたんだ。》
聞こえてる証に再度頭を振ってみる。
《しかしお前、以前この道にはいなかったが、どこから来たんだ?》
今度は横に揺れてみる。
質問調ではあるが、灰猫は答えを期待している風ではありません。
立ち上がって私の周りをぐるぐる歩き回り、くまなく点検する。
《ふむ…どうやら何かが集まって出来たみたいだねぇ。
意識を持ってるのは珍しいが、たまに似たようなのを街で見かけるよ。
大概タチの悪い人間がこぼしていったゴミだが…
お前はちょっと毛色が違うな。》
灰猫は再び私の前に立つと
《まぁ話ができないんじゃ仕方ない。
あたしも使いの途中だから帰るよ。
じゃぁな。》
と言って、つい、と去ってしまったのです。
生まれて初めて話しかけられた喜びも束の間の時間だったので
私はその後ひどく落ち込みました。
次にあの灰猫が通った時までに、なんとか話ができるようにならねば。
しかし全くやり方がわからない。
あの猫は《実際に喋っているわけではない》と言っていたが、口は動いていたようだったので、何かを発しているのは間違いないでしょう。
私に向って《耳が無い》とも言っていた。
生まれてこの方、己の姿を見たことがないので、一体どんな姿かたちをしているのやら。
縦横に伸びたり、揺れたりすることはできるのですが…。
…私は歩くことができるのだろうか?
さすれば、あの角の向こうを見ることができる。
最も単純なことに思い至って、私は思わず身震いし、灰猫が一緒にいてくれたらいいのに、と嘆きました。
その日から私は何者から道を通るたびに、灰猫かと思って期待しては失望する羽目になました。
まったく期待というのは厄介な願望でございます。
***
エノコログサはすっかり水気を失い、白茶けて折れてしまいました。
誕生時から共に生きたこの植物には、愛着ともいえる感覚を抱いていたので、私は惨めな気持ちで枯れ行く相棒を眺めておりました。
あれから何日経ったのかわからないが、灰猫は通りませんでした。
すでに私も諦めてしまっており、声を出す努力も放棄している始末。
孤独すら当然のものとして、享受しておりました。
その時、突然声が降りかかったのでございます。
《ぃよぉ。》
待ち望んだ声。
だが振り向くとそこには、期待より大きな影が立っていました。
若い人間の男。
黒服の若い男が明らかに私を認識して見下ろしてございます。
私を直視する人間は初めてでありました。
思わずエノコログサに身体を寄せて警戒してしまったのです。
ですがその男は手を後ろに組んで、私に怯える様子も、不快な表情も見せず、知り合いの側に立つような気軽さで私に面しておりました。
そしてその肩に、あの灰猫が女王の如く座っていたのです…。
「これかなチャコ。
君の言ってた〝面白いモン〟っていうのは。」
男が言葉を発します。
丁寧な口調ではあったが、支配力を感じさせる声色でございました。
《あぁ。》
チャコと呼ばれた灰猫は、男の肩から飛び降りると、私の近くに座って男を見上げます。
《言ったろ、絶対まだここに居るって。》
男が私をしっかり見据えて
「チャコから〝自我を持っている〟と聞いたんだが、本当かい?」
と質しました。
私は刹那、逡巡したが頭を上下に振って肯定の意を示します。
「君は人や動物を食べますか?」
そういえば私は生まれてこの方何も口にしていない。
この質問には横に振っておきます。
「人や動物、または物を壊したいという願望があるか?」
またも横に振る。
「ここにずっと居たいか?」
この問いは何故だろう、私の思考に痛く突き刺ささりました。
エノコログサに目をやると、風に揺れて『行きなさい』と言ってるようでした。
少し長い沈黙の後、私はゆっくりと首を横に振ったのでありました。
男は長らく私を観察した後、薄い笑みを浮かべます。
「君は確かに面白そうだね。
我が家に招待するよ。」
私は男の顔を見上げ、チャコのほくそ笑むような眼と見比べる。
そして、生まれて初めて私は立ち上がったのでありました。
そんなことが出来たのか、と己で驚く程でございました
男と私の目線は丁度同じくらいになります。
端正な、しかしどこか崩れて歪んでいるように、私の目には映りました。
「どうやらYesのようだね。」
男が少し、薄い唇の端をさらに持ち上げました。
これが今日の私の主、貴戸樟陽と、灰猫チャコとの邂逅でありました。