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路傍の碧  作者: 百々色ゆふ子
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序章

「アンデルセン、という作家を知ってるかい。」

 主人の問いは、いつも出し抜けでございます。

 「創作童話作家として有名な男なんだけどね。

 僕は彼の作品の中で『パンを踏んだ娘』っていうのが好きでね。」

 私も主人に拾われてから今日まで、あらゆる書物に目を通して参りましたので、童話というのがどういった類のものなのかは存じておりました。

 しかし好きと語るは人の悪い主人でありますので、きっと悲劇的で報われぬ話と私は検討をつけます。

 「金持ちの家に奉公に出されたインゲル、という美しい娘が居たんだ。

 高慢な娘で美貌を鼻にかけていた。

 ある日金持ちの主人にパンの土産を持たされて、実家に里帰りするんだが、道中ぬかるんだところを通らねばならなくなった。」

 《そこでパンを踏んだのかい?》

 此の問いは、主人に抱かれていたチャコが発したものでございます。

 チャコは雨が降ると憂鬱そうですが、主人に抱いてもらえるというので渋々ついてきたのでした。

 「そうさ。

 自分のドレスが汚れるのを嫌って、せっかく持たせてもらったパンを泥に投げ入れ、それを踏んで渡ろうと考えたのさ。」

 此のような話をする時の主人は実に生きゝとしております。

 「踏んだ瞬間、パンはインゲルを乗せて沈み始めた。

 そのぬかるみは底なし沼で、インゲルは二度と上がってこなかった。」

 私は美しいドレスを着てパンを踏む少女の姿を思い浮かべてみました。

 もし私が近くに居れば、彼女が沈むのを止めようとしたでしょうか?

 「まぁ要するに地獄に落ちたんだ。

 西洋ではパンというのはキリストの身体ともいわれているからね。

 それを泥に投げ入れ、あまつ踏みにじった高慢な女には他に行先が無かったわけだ。

 高慢というのは七つの大罪の一つでもあるし、地獄側も手ぐすね引いて待ってたんだろうさ。」

 私はその後インゲルはどうなったのか、と主に聞いてみました。

 「沼女ってのに捕まったんだ。

 蛇や蛙まみれのゲテモノになった挙句、魔女に売られて意識があるまま石のオブジェにされてしまった。

 人間界ではバカな女だ、とネタにされ、これでもかって位ひどい目に合うんだよ。」

 なんとまぁ…迷信深い時期の子供が聞いたら震えあがりそうであります。

 一体主人は此の話の何が好きなんでしょうか。

 主人の人の悪さは見た目からはよく分からないので、困ったものでございます。

 腕の中でチャコがため息交じりにつぶやきました。

《フランスパンだったら沈まなかったかも知れないねぇ…》


***


 三日後の夜、私とチャコは木の上から一人の女を見つめておりました。

 女はほとんど一糸まとわぬ姿であり、普段は美しいであろう肌も、艶やかだったはずの髪も薄いグレーの泥に塗れて汚れておりました。

 女の顔は引き攣れたような歪な笑みを湛え、人ではない私の目からも狂っているのが見て取れるほどでございます。

 女の周りには偶然彼女を発見してしまった、作業服の男たちが呆然と立っており、まだ固まりきらぬコンクリートに埋もれた、裸の女を凝視しておりました。

 それは奇妙に美しい光景であったのです。

 仏蘭西の大博物館へ行こうとも、あの歪な美しさを思わせる作品は無かったでしょう。

 男たちも、衝撃半分、魅了半分、といった様子で女を眺めております。

 主人が何故、アンデルセンの少女の話が好きなのか、わかったような気がいたしました。

 汚れを知らぬ美しいものを、汚し醜く飾り立てるのは、あの生き物達の性を呼び起こすのだ。

 もしパンと沈むインゲルの近くに男がいたなら、呆然と魅入るだけだったのかもしれません。 


 チャコが私に言いました。

《見てご覧。あれが人間サマだよ。》

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