還る日
電車に乗って最寄り駅に着いたまではよかった。
だが、昔は例の遊園地まで通っていた無料のシャトルバスが、今は当然なくなっている。
一番近いバス停まで、と思っても、手持ちの小銭ではそこまでの運賃には足りなかった。
そこで、私は炎天下を歩いて行くことにした。
幸い、地図は図書館からこっそり持ち出してきている。
これは貸出禁止のものだったけど、良心は全く咎めない。
私に何もしてくれなかった学校なんて、せいぜい困ればいい。
この三年間の憤りを胸に、私は熱いアスファルトの上を、すり減ったスニーカーでひたすら歩いていった。
「着いた……」
流れる汗を腕で拭って、呟く。
午後に学校を抜け出して、目的地に辿り着いたのは、もう夕暮れになっていた。
少し前までうるさいぐらいだった蝉の声が、ぴたりと止む。
もうすぐ夜になるのだろう。急がないと。
既に電気が止められている遊園地は、街灯すら灯ってはいないのだ。
駐車場の側の塀は、金網のフェンスになっていた。疲れと、体力がないせいで、なかなか力の入らない手足でフェンスを乗り越える。
降りたところは雑草や蔦が延び放題の緑地。それを踏みしだいて、通路に出る。
ぐるり、と周囲を見渡した。
一際高い観覧車、塔のそびえ立つお城などのシルエットが見える。
大体の位置を推測して、歩き出す。
あの日、私が最後に入ったアトラクション。
全てをがらりと変えてしまった、ミラーハウスへと。
ミラーハウスの入り口は、鏡と色とりどりのガラスが嵌め込まれた扉になっていた。
だが、それは今やあちこちが割れて、鍵も開いてしまっている。
営業を止めてしまってからも時間が経っていたらしい。その間に、人が入りこんだこともあるのだろう。
じっと、耳を澄ます。人の気配は感じられない。
私は、家から持ち出した懐中電灯を手に、中へと踏み入った。
懐中電灯は失敗だったかもしれない。
いくらも進まないうちに、私は苦々しくそう考えた。
通路の壁が鏡張りになっている以上、それは光を反射する。正面の鏡から光を浴びせられて息を飲むことが続いた。
だが、当時にあったような、ぼんやりとした照明は勿論生きていない。結局、足元だけを照らして進むことにする。
一番怪しいのは、鏡をすり抜けたような感覚を得た、あの時だ。
入り口近くではなかったが、念のために、私は左右の壁を軽く叩きながら進んだ。
ミラーハウス内の蒸し暑い空気にうんざりしてきた頃、遠くで何かが割れる音が聞こえた。
反射的に息を殺していると、何人かの話し声が聞こえてくる。
誰かが、入ってきている。
この三年ですっかり対人恐怖症となった私は、慌てて足を進めた。
周囲の鏡に映る、動く自分の姿に驚き、視界を狭くするカーテンが揺れるのに怯え。
そして、私は、また躓いたのだ。
袋小路の、三方の鏡に映った人影に、足をもつれさせて。
「……っ!」
「きゃああ!?」
背筋が冷えて、衝撃に心を備える。
倒れこんだところは、やけに柔らかかったりごつごつしたりしていた。
「痛い痛い痛い重ーい! 誰ぇ!?」
身体の下から、甲高い声が響く。
誰かを下敷きにしてしまったのだ、と気づいて、慌てて身を起こした。
「ご……ごめんなさ……」
小さな声で、ぼそぼそと呟く。
床に転がった懐中電灯の光が、私たち二人を照らし出した。
相手は、私と同じぐらいの年齢の、女の子だ。
長めの黒髪をツインテールにして、ピンク色のシュシュをはめている。ふっくらとした頬には健康的な赤みが差し、物怖じせずに私を見上げてきていた。
どくん、と鼓動が跳ねる。
この、娘は。
「あなた……だぁれ?」
舌足らずな言葉で問いかけられて、かっと顔に血が上った。
「私だー!」
私は、この三年間、幾度となく考えた。
今のこの状況は、一体どういうものなのかを。
まず、何らかの理由で、私を取り巻く世界ががらりと変わってしまったもの。
そして、所謂並行世界、私のいた世界と似ているけれども違う世界に来てしまったというもの。
ひょっとしたら、元々私はこの世界にいたのだけれど、何らかの理由で、そうではないと思いこんでしまっているというものまで。
最後の説を考えついた時には、酷く恐ろしくて胸が潰れそうな思いをした。
自分の頭がおかしくなっているのではないかと疑うことなんて、したくはない。
並行世界の場合に、話を戻そう。
その並行世界に元々私がいなければ、母や友達は、あんな対応をするはずがない。
その私がいなくなって、同時に私がやってきた。
だとすれば、その、いなくなった私は、一体どこにいるのだろうか。
「……じゃあ、あなたが、あたしと入れ替わりになっていたって言うの?」
大きな目を見開いて、可愛らしく小首を傾げ、〈あたし〉はそう尋ねてきた。
「その可能性が高い、と思ってた。考える時間は幾らでもあったから。あんたは、考えたことなかったの?」
必要以上にぶっきらぼうなのは、私が他人と話すのに慣れていないからだ。
そんな私に、〈あたし〉はにっこりと笑んで続けた。
「あたし、神様がママやかなちゃんたちを改心させてくれたんだろうなぁ、って思ってたわ」
頭が痛い。
震える手で、私はこめかみを押さえた。
「大丈夫? 先刻、頭打ったんじゃなぁい?」
心配そうに、〈あたし〉は顔を覗きこんでくる。
人の身体の上に乗しかかっていったのに、頭は打たないだろう。
この娘には、考える時間は必要なかった。
私が考えたうち、一つ目の理由で納得していたのだ。
それはそうだろう。彼女には、新しい世界を否定する理由なんてない。
〈あたし〉の、艶のある、長い髪。
私の髪はばさばさで、短い。よく切られてしまうから。
〈あたし〉の、血色のいい頬。柔らかな曲線を描く身体。
私の顔色は悪く、頬もこけている。腕も、骨に皮が貼りついたようなものだ。
〈あたし〉の服は。アクセサリーは。靴は。
比べるだけでも、ばかばかしい。
これで世界を否定していたら、どんな変わり者か。
長く、溜息をつく。
「でも、参った……。まさか、二人ともが一つの世界にいることになるなんて」
私の考えでは、同じ世界に同じ人間が存在することはなく、上手く世界を移動できたら、〈あたし〉は元の世界に戻るものだと思っていた。
人非人だとなじらないで欲しい。〈あたし〉を思いやるだけの余裕は私にはなかったし、そもそも、それぞれ元の世界に戻るのだ。それが自然だ。
「それ、困ったこと?」
きょとんとして、少女は問いかけてくる。
これが〈あたし〉か。
私も、こちらの世界で暮らしていたら、こんなふわふわほわほわした、砂糖菓子みたいな女の子になっていたのか。
何だかこう、複雑な思いがこみ上げて、また長く息をつく。
「あ、あのね。あたし、ちょっと考えたんだけど」
「あんたが?」
一生懸命に話し出すのを、呆れ気味に見る。
「あたしと一緒に、住まない?」
それは。
「パパとママは、あたしが説得するわ。ほら、実は双子だったとか、色々あるじゃない」
とても荒唐無稽な思いつきで。
「元々同じ人間だもの、それが自然よ。ね?」
無理がありすぎて、不自然極まりない申し出で。
「大丈夫、パパは、あたしに凄く甘いの!」
満面の笑みで続ける〈あたし〉には、全く悪意のかけらもなくて。
凄く、ありがたい提案であったのだ。
冷静に考えれば。
だから、私が。
「私の、パパと、ママだ!」
〈あたし〉の胸倉を掴んで怒鳴りつけたのは、本当に衝動的な行動だった。
「なに……!?」
〈あたし〉は、酷く驚いた、恐怖の滲む顔でこっちを見る。
「パパとママは、私のだ! 私のものだ! 返せ! 返せよ!」
頼れる父親と、優しい母親。
申し分のない家庭から引き剥がされただけでなく、それを他人が我が物顔で所有している。
その代わりに得たのが、この三年間の、辛い、苦しい日々なのかと思えば、私が激昂してしまったのも、無理はない。
……誓って、危害を加えるつもりはなかったのだ。
ちょっと、ひっぱたくくらいはしてしまうかもしれなかったけど。
「いやぁ!」
だが、実際は、三年ぶりに浴びせられた怒声と、怒りの視線、与えられるかもしれない暴力に怯えた〈あたし〉が、手を振りほどこうと身体をよじり、私を突き飛ばした。
そのはずみで、反対方向に動いた〈あたし〉の身体は、背後の鏡に勢いよく打ちつけられたのだ。
鏡に、ひびが走る。
映る私の顔が、歪んで。
歪んで、割れて。
鋭い破片が、頭上から無数に降り注いだ。
ばしゃ、と、熱い液体が顔に、身体にかかる。
手を延ばしても、ちょっと届かないほどの距離があるのに。
私には、破片は一欠片も刺さらなかったのに。
熱かった液体は、すぐに冷めていく。
血まみれの少女は、ぐったりとして動かない。
一言も声を上げずに、この娘は。
「どうした!」
「大丈夫!?」
ばたばたと、私の名前を呼びながら走りこんできた一団に、身を竦める。
現れたのは、見覚えのある男女。
「かなちゃん……。まやちゃん……。せっちゃん……」
もう一人は、何となく覚えがある。まやちゃんのお兄さんだ。
私が呟いた言葉に、凍りついたように動かなかった彼らは、揃って悲鳴をあげた。
「いやぁあああああ! 何で!?」
悲鳴を上げる。私の名前を呼んで、泣き叫ぶ。
ああ、違う。〈あたし〉の名前だ。
「あんた、何なの! あんたがやったの!?」
腕を乱暴に掴まれて、我に返る。
「……私よ」
ぽろりと漏れた言葉に、皆の顔が引きつる。
「あんた、何で、この子に何の恨みがあって」
しゃくり上げるように泣きながら、さっちゃんが問い詰めてきた。
「違う。私よ。私が本物よ! こんな、偽者に騙されないで!」
「……は?」
怒りを表に出して、睨みつけられる。
反射的に怯えを覚えて、私は身を竦めた。
見覚えのある表情。聞き覚えのある声。
この三年、ずっと浴びせられてきた、あの。
「何言ってるの! あんたとこの子じゃ、全然別人でしょ! 顔つきも、体つきも、服装だって!」
身体の震えが止まらないけど、でも。
「だって、帰ってきたんだもの! 今、帰って来たところなんだもの! 私が、本当の」
「本物には、こんなところに傷なんてないわよ」
冷たく、額を指して告げられる。
ろくな治療もできなくて、痕が残ってしまった、傷。
「……あんたたちがつけたんでしょうが!」
腹の底から、叫ぶ。
「言いがかりつけないでよ! 誰にもしたことないわよ、そんなこと!」
怒鳴りあう私たちをよそに、まやちゃんのお兄さんが、また姿を見せた。
……今まで、どこに行っていた?
「警察と、救急車を呼んだよ。その子を逃さないで」
ここは袋小路。通路に続く方向は、彼らが塞いでいる。
私は、本当の世界に帰還した私は、この三年間でも感じたことのない絶望に押し潰された。




